2016年5月7日土曜日

『五色の虹』

 『五色の虹』、サブタイトルは「満州建国大学の卒業生たちの戦後」(三浦英之 集英社、2016年第2版)を読んだ。先日、地元紙で見た新刊紹介記事。中国の近代に関心がある。それなのに「満州建国大学」というキーワードさえも知らなかった。吸い込まれるようにして一気に読む。読みながら気になる個所に付箋をつける。かなりたくさんになった付箋紙。これからその個所を記していこう。この本は第13回開高健ノンフィクション賞受賞作品。

 ノンフィクションということは実際にあったお話。本の中に登場する人たちは本のタイトルどおり「満州建国大学の卒業生たち」。その人たちの最後となる同窓会は2010年東京で開催される。「彼らは日中戦争当時、日本が満州に設立した最高学府『建国大学』の卒業生たちである。中国東北部がまだ満州国という名前で呼ばれていた時代、日本政府がその傀儡国家における将来の国家運営を担わせようと、日本全土や満州全域から選抜した、いわば戦前戦中の『スーパーエリート』たち」だった。20-21p

 「建国大学では日本人学生は定員の半分に制限され、残りの半数は中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの各民族の学生たちにきちんと割り当てられていた。カリキュラムも語学が授業の三分の一を占めており、学生たちは公用語である日本語や中国語のほか、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、モンゴル語などの言語を自由に選択することが許されていた。…戦前戦中の風潮からちょっと想像もつかないような、ある特権が付与されている。言論の自由である。…建国大学は開学当初から中国人学生や朝鮮人学生を含むすべての学生に言論の自由を―つまり日本政府を公然と批判する自由を―認めていたのである。」22-23p

 「建国大学は一九四五年八月、満州国の崩壊とともに歴史の深い闇へ姿を消した。開学わずか八年しか存在し得なかった大学の名を今記憶している人はほとんどいない。それは日本が敗戦時に建国大学に関する資料の多くを焼却したためであり、戦後、それぞれの祖国へと散った卒業生たちが、後世に記録として残されることをひどく嫌ったせいでもあるといわれている。」23-24p

 最後の同窓会の参加者は約120名。一期生から八期生までが出席。この大学で学んだ学生はその特殊性から弾圧される。帰国後も傀儡国家の最高学府出身者というレッテルによって、高い語学力と学力を有しながら多くの学生は相応の職種に就けなかった。25p

 「彼らはたとえ国家間の国交が断絶している期間であっても、特殊なルートを使って連絡先をたどり、運よく連絡先が判明すると、手製の名簿に住所や電話番号を書き足していった。二〇一〇年に完成した最終版である『建国大学同窓会名簿』には約一四〇〇人分の氏名や当時在籍した塾番号に加え、現在暮らしている住所や電話番号、戦後所属した組織やその役職などがひっそりと記録されている。」26-27p

 筆者の三浦はある日、勤務先にかかってきた電話を受ける。定年退職した人などに夢のシルクロードを自転車で駆け抜ける旅などを主宰している長澤だった。長澤はシルクロードをめぐるうち旧ソ連邦のキルギスの山奥に多くの日本人が抑留されている事実を知る。このことを近現代史に関心があり、なおかつ新潟に勤務していた人を探していた。それにかなう人が著者となる三浦だった。34p

  なぜ新潟勤務経験者かといえば新潟弁が通じる人の方が取材しやすいと考えた結果らしい。三浦は新潟に向かい宮野泰を取材。その人の口から出てきたのは「ケンダイセイの端くれ」。三浦はその言葉を知らず宮野から聞いて初めて知る。

 「『満州国の建国大学―』 それが『幻の大学』と呼ばれた大学の名を、私が初めて耳にした瞬間だった。」42p

 三浦は「建国大学」の卒業名簿を入手。「五族協和」を掲げて入学した彼らが夢見たものとは、その後卒業した学生たちは「戦後」をどのように生きたのか、当時の日本をどのように見ていたのか、を訪ねる旅を始める。それは2010年秋。各国に散らばる卒業生たちの「過去」と「現在」を集める旅だった。行先は日本、中国、韓国、モンゴル、台湾、カザフスタンを訪ねる旅。27p

 「この時代について語るには欠かせない人物に石原莞爾がいる。石原は『建国大学と民族協和』で新設される大学は『満州国の最高学府』にするのではなく『アジアの最高学府』にすべきと訴えて『国際性』を持たせた。」52p

 「満州国の最高学府―。それは日本が最終戦争を勝ち抜くために満州国に設置した、極めて戦略的な『国策大学』だったからである。」55p

 建国大学について研究している人にICUの宮沢理恵子がいる。三浦は宮沢とも面会して『建国大学と民族協和』を参考にする。その後、武道教育の面から建国大学の研究を続ける志々田文明。この人を通じて『藤森日記』の膨大なコピーを入手。この日記は二期生だった藤森孝一が書いている。この青年は17歳当時神童と呼ばれていたがまるで「海外旅行」の気分で入学する。59p
 
 そこでは軍事訓練と農事訓練が主な訓練だった。72pそして学生の楽しみとして読書があった。15万冊の蔵書の図書館もあった。74p

 三浦は藤森との取材の最後に聞く。「藤森さんの人生は幸せだったのでしょうか」。これに対して「自分が生きてきた人生がすなわち私の人生だとすれば、私は私の人生に悔いというものはありません」。「もしあの時満州へ渡っていなかったら、と考えることはありますか」、に対しては「…人の人生なんて所詮、時代という大きな大河に浮かんだ小さな手こぎの舟に過ぎない。小さな力で必死に櫓を漕ぎ出してみたところで、自ら進める距離はほんのわずかで、結局、川の流れに沿って我々は流されていくしかないのです。誰も自らの未来を予測することなんてできない。不確実性という言葉しか私たちの時代にはなかったのです」。83-84p

 三浦は藤森との取材を皮切りにして、全国に散らばる建国大学の出身者たちの取材を進めていく。手始めに百々和を訪ねる。取材中、それぞれの8月15日にも焦点を当てる。百々和が帰国できたのは戦後11年経ったとき。その間、百々和には叶えたい夢があった。大学院に入りたかったのである。その時38歳。その後53歳で神戸大学の教授となる。百々和が学生に言い続けた言葉がある。

≪企業で直接役に立つようなことは、給料をもらいながらやれ。大学で学費を払って勉強するのは、すぐには役に立たないかもしれないが、いつか必ず我が身を支えてくれる教養だ―≫101p
 
 「…鉄砲玉が飛び交う戦場や大陸の冷たい監獄にぶち込まれていたとき、私の精神を何度も救ってくれたのは紛れもなく、あのとき大学で身につけた教養だった。歌や詩や哲学というものは、実際の社会ではあまり役に立たないかもしれないが、人が人生で絶望しそうになったとき、人を悲しみの淵から救い出し、目の前の道を示してくれる。…私はそれを身につけることができる大学という場所を愛していたし、人生の一時期を大学で過ごせるということがいかに素晴らしく、貴重であるかということを学生に伝えたかった・・・」101-102p

 さらに百々和は話す。「日本人にとっては『潔さ』とは『美しさ』とそれほど変わらない意味だった。そして『美しく』あることは、『生きる』ことよりも、遥かに尊いことだった」104p

 大連に住む一期生の元中国人学生の楊増志。当時建国大学の入学生には月五円の「手当」がつき、学内には「言論の自由」が存在していた。楊にとっては日本人に向かって日本政府の植民地政策を真っ向うから非難しても咎められることがない、嬉しいことだった。125p 
 
 その楊が1941年憲兵隊に治安維持法違反で検挙される。国民党の資料を持っていたためだ。この話を聞いていた筆者もその場に居合わせた中年男性によってこれ以上話を聞かれなくなる。共産党にとって不都合な事実は取材させてくれない。138p

 取材中の筆者の列車が瀋陽を通過。この街の郊外にある柳条湖。ここで満州事変勃発。「鉄道守備隊」は「関東軍」と名を変えて満州事変を契機に満州全土を掌握。一連の筋書きを描いたのは、関東軍参謀の石原莞爾。次に石原が描いたのが国家運営を継続するための人材育成。その根底となる教育制度の創設こそが建国大学だった。

 「それは矛盾と暴挙に満ちた新生国家を知識と権力によって操縦していくために発明された比類なき『教育機関』だった」150p

 次に会う中国人の学生は谷学謙。だが、取材中止になる。≪不都合な事実は絶対に記録させない―≫171p

 楊と谷の2人は「言論の自由」に惹かれて建国大学に入学。ところが戦後の中国は共産党政権。「言論の自由」は許されなかった。それゆえ三浦は2人の口から当時のこともその後のことの真実も詳しくは聞くことができなかった。

 建国大学に備わっていた言論の自由。しかし、「小さな穴」である「言論の自由」も筆者に言わせると「小さな穴でも大きくて厚い壁を壊すのには十文だった」という事実だった。171p

 次はモンゴルのウルジン、朝鮮人の金載珍、姜英勲を訪ねる。姜は1988年に韓国大統領に就任した蘆泰愚により、韓国の首相に招聘される。1990年分断していた南北首相会議をソウルで実現。その一か月後板門店で韓国首相として初めて金日成主席と握手した。姜には別れ別れの妹が北にいた。そして妹とも再会。215p

 他にも台湾人学生の李水清。李は非日系の学生の中でも特別な存在だった。孤児だったそうだ。以下は李の言葉。

 「生涯において大切なことは、己が真に信じることができる『道』を見つけることができるかどうかだ」、「ゆえに、我々は生涯をかけて勉強に励まなければならない。そして、一度正しいと信じたことは他から何と言われてもそれを終身実行しなければならないのだ」235p

 その後、「李はそれらの販路を台湾国内だけでなく、日本や中国で暮らす建国大学の卒業生のネットワークを利用して徐々に国外へと拡大させ、台湾を代表する一大製紙企業を築き上げたのである。」243p

 孤児で育った李は筆者の取材の最後の質問に答えている。「私にとって台湾は難しく、愛しい、母親のような国です」246p

 日本人とロシア人のハーフのジョージ。筆者はジョージの生き方通してこう綴る。
 
 「人の一生とはなぜこうも儚いんだろう、と私はアルマトイに向かう飛行機の中で一人思った。…人は豊かな人生を生きたいと願い、そのためにもがき苦しんで多くのものを失いながら、最後には何を掴んだかを知ることもなく死んでいく。ジョージもそうだったし、これまで取材に応じてくれた多くの建国大学の卒業生もそうだった。人生とは何なのだろう―。…」272-273p
 
 筆者の三浦はこの取材に取り掛かる前に「満州国」をテーマとする研究者である京都大学の山室信一を訪ねている。戦後の日本という国をどのように捉えているか、との質問に山室はこう答える。「私はそれを歴史の中から学ぶことができるのではないかと信じています」。さらに続けて「私たちはもっと正しくかつての『日本』の姿を知る必要があるのではないかということです。日本や日本人はどうしても自国の近代史を『日本列島の近代史』として捉えがちです。…『日本』という特殊な国の歴史のなかで、台湾、朝鮮、満州という問題が極度に集約されていたのが建国大学という教育機関だった、というのが私の認識であり、位置づけでもあります。政府が掲げる矛盾に満ちた五族協和を強引に実践する過程において、当時の日本人学生たちは初めて自分たちがやっていることのおかしさに気づくんです。…」。306-307p

 筆者は「あとがき」で「本作品のタイトルの中の『虹』は、アパルトヘイトを克服した南アフリカの故ネルソン・マンデラ元大統領が、人種や民族の違いを超えた多民族国家を目指そうと、南アフリカを複数の色が合わさってできる「レインボー・ネーション」(虹の国)に例えた歴史的な演説から借りている。彼が掲げた理想はまさに、建国大学卒業生たちが目指したものと同じ、『民族協和』の実現だったからだ」と述べる。324p

 さらに「満州の大空にかけようとした『五色の虹』は、内包する理念の欠陥により必然的に崩壊し、無数の悲劇を戦後に残した。しかし、その一方で、彼らが当時抱いていた『民族協和』という夢や理想は、世界中の隣接国が互いに憎しみ合っている今だからこそ、私たちが進むべき道を闇夜にぼんやりと照らし出しているのではないか。…」。そして、こう述べて文を締めくくる。「『衝突を怖れるな』とある建国大学出身者は言った。『知ることは傷つくことだ。傷つくことは知ることだ』」。326p、

 建国大学で学んだ学生たち。本を読み終えて学生たちが目指した夢と理想とは何だったのだろうか、と思った。筆者が訪ねた人のうちから何人かを抜粋。個人的に関心を抱いたのは38歳で大学院へ入り、53歳で神戸大学の教授になった百々和。彼は教え子の学生に言っている。再度ここに記そう。

 ≪企業で直接役に立つようなことは、給料をもらいながらやれ。大学で学費を払って勉強するのは、すぐには役に立たないかもしれないが、いつか必ず我が身を支えてくれる教養だ―≫

 読後感はなぜかすがすがしい!

 百々和についてネットで調べた。「21世紀日本アジア協会」のHPに行きつく。URLはhttp://www.jas21.com/athenaeum/athenaeum50.htm(参照)

 このなかで伊原吉之助は百々和の『自分史回想』の読後感を書いている。これも興味深い。今日はお昼から日本画教室。今日も元気で!

2016年5月6日金曜日

♪誰かがサズを弾いていた♪


 今朝の地元紙にヤドランカ・ストヤコビッチの訃報記事がある。すぐに♪誰かがサズを弾いていた♪を歌っていた人だと気づく。5年前に初めて聞いたこの曲をブログにアップ。我ブログの閲覧数の8番目に多い。哀愁を帯びた歌声とエキゾチックなメロディ。今聞いてもやはり素晴らしい!65歳の若さで亡くなっている。「サズ」、という楽器もこの曲で知る。

 ボスニア・ヘルツエゴビナの出身だそうだ。2年前、クロアチアに出かけたときボスニアを通過。ビルなどの建物の外壁のすさまじさを目にする。1992年に起きたボスニア紛争を思わせる銃弾の痕だ。その時は日本で活動。そして東北の大震災が起きた2011年ボスニアへ帰国する。

 いつ聞いても素晴らしい。ヤドランカ版♪月の砂漠♪のようだ。本人が歌う動画はハングル文字と日本語。ハングルは全く分からないけど音楽はどこも同じ。これをアップしよう。

 それにしても今年のGWはよく雨が降る。今日も雨。この3日間、読書三昧。昨日は一日『五色の虹』をブログに入力。草臥れる。明日、アップしよう。山下清展を見に行く予定も日を改めて行こう。プールも行きたい。だがこの雨では自転車に乗れない。これも日を改めて…。雨を嘆かず今日も元気で!

2016年5月5日木曜日

『虹の橋を渡りたい』&『人生に美を添えて』

 GWもお天気に恵まれて昨日のひろしまフラワーフェスティバルに2日目としては最多の53万3000人が繰り出している。東京にいる姪はモンゴルから帰ったとの報告が入る。一晩のうちに大雪になり、断水、停電、雪の中を歩いたり、車が動かなくなったりしたとか。それでもアドベンチャーだったと楽しかった旅のメールをくれる。添付写真は子山羊を抱っこしたもの。動物好きの姪らしく「可愛かったんよ」という。ただ、羊肉は困ったらしく、野菜を美味しく食べたそうだ。

 外モンゴルは行ったことがない。だが、ずっと前に内モンゴルへ行っている。同じくGWの時で宿泊のパオ(包、外モンゴルはゲル)の外を見るとやはり雪だった。姪のツアーは若い人が多かったらしい。乗馬体験などモンゴルらしい体験があり、落馬した人もいたらしい。首から手を三角巾でつるした人もいたそうだ。

 そういう報告とは無縁でGWはもっぱら読書三昧。『虹の橋を渡りたい』(中田整一 幻戯書房 2016年)、サブタイトルは「画家堀文子九十七歳の挑戦」を読んだ。この本はNHK勤務時代、ある番組で知り合った堀文子と交流がある筆者が堀の人生の聞き取りを続けてきたことを本にしている。
 
 「日本人は過去を忘れ歴史に流される今、堀文子さんの生き方を立ち止まって考えてみるのは意義あることではないか、と思うようになった」と筆者は「あとがきにかえて」でこう述べる。画家・堀文子の精神形成の後ろにある父の堀竹雄と夫の箕輪三郎。この二人は筋金入りの平和と反戦主義の思想の背景にいる影絵の人物であるという。そして背筋を伸ばしたぶれない生き方の堀。父と夫という二人に的を絞って徹底的に資料の調査を行って本にしている。

 「堀文子さんほど自然と共生して、草木と花、あらゆる生きとし生けるものに慈しみの心を寄せる人を寡聞にして知らない」、「六十代にアトリエ兼別荘を構えた軽井沢では、人間には馴れにくい野生の狐の餌付けを試みた。そして障子に穴をあけて、日々訪れてくるのを観察して山中独居を愉しんだという微笑ましい話もある」と本の終わりで堀をたたえて文を終える。

 またいつものように気になる個所を記そう。(文中に「堀」がないのは筆者の中田が堀の文を引用)

★人生は一炊の夢である。まことにはかない人の世で名誉や地位、財産、権力を競ってもどうなるものでもない。人間は等しく土に還る小さな自然の一部に過ぎない、と信じている。55-56p

★日本人のフォルムや色に対する意識は立体的に表現しようとしなかった。平面絵画を守った日本画の凄さが、いま、九十七歳で少しわかってきました。西洋の絵画は、彫刻の真似をしています。ところが日本画は理性の絵画ですね。絵というものは平面ではないですか。平面に立体を表現するときに、どうやって存在感を表そうかと、長年にわたって工夫してきたのが日本画です。…絵描きは雲水です。いわば一切の欲望を捨てて、美しい形に夢中になる奴がいいんです。そこに欲望が入ってはいけないんです。100-101p

★エラスムスは花で木でも、みなそれぞれがお互いを侵さず立派な生き方をしていると書いています。自然界は、平和で自立しているんです。平和こそ自然が人に与えた最良のもの、それを乱すのが人類の戦争なんですね。207p

★人生にたった一度だけ、初志を曲げて頼ったのがAIGのスターだった。勇気をだして”世界を見て見聞を広めたい、西洋のありのままを知りたい”と、手紙を書いた。スターに海外でのインビテーション(招待)、身元保証の依頼をしたのだ。218-219p

★送られてきた封筒のなかには、これらの国々へ三年間有効の航空券が同封してあった。218p

★ユカタン半島で見たマヤの遺跡の素晴らしさは私のかつての美意識を粉砕しました。ヨーロッパの合理的な美の原理とは全く異なる、現生よりは霊界との交信を思わせるこの簡素で優雅なマヤの美はわたしの魂に響きました。221p

★メキシコでの収穫がひかる斬新な一枚の絵「魔王の館」を出品した。…紙上に流した絵具の上に板を押し付け、それをはがした後にできる偶発的な絵肌を利用して描く絵画技法デカルコマニー(フランス語で「転写法」の意)という手法を取った型破りの日本画だった。堀の場合は、この時プラスチックの板に絵具を流し紙を押し付けて模様を創り、その上に絵を描いてみたのだ。234p

★欧州とアメリカに放浪の旅をつづけながら堀が考えたことは、ものづくりを生業とする人間は文明の便利さのなかにいると大切なものが見えなくなるという思いだった。…住み慣れた都会の暮らしを捨て、自然の草木と共生できる土地に移り住もうというのである。…探し当てたのが神奈川県大磯町、高麗山の山ふところの一隅である。239p

★二〇一五年の春、神戸の兵庫県立美術館で「堀文子『一所不在・旅』展」と題する特別展が開催された。堀文子の画業八十年を記念して百三十点の作品が展示されて注目を浴びた。四月から始まって二ヵ月足らずの展覧会に、五万四千二百人余の堀ファンなどの鑑賞者が訪れたのである。263p

 もう終わってしまったけれど、「堀文子『一所不在・旅』展」のURLは以下の通り。http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1504/index.html

★絶筆は虹を描き、その虹の橋を渡って黄泉の国へ行きたいと願う。人生の長い道のりでたゆまぬ努力と挑戦を重ね、人々の心を感動でつつんできた日本画家・堀文子、九十七歳。虹の橋は、自らの信じる道を全力で疾走してきたこの人だけが授かる天からの贈り物だろう。堀の絵筆が燃え尽きるまでには、まだたっぷりと時間は残されている。269p

 この本と同じ頃に読んだのが『人生に美を添えて』(大村智 生活の友社、2015年)。大村も堀のことを書いている。これも記そう。それにしても昨年「おとなび」を利用して神戸の美術館で見た堀の展覧会。今、思い出しても見に行ってよかった。もうすっかり堀文子のファンになってしまった!堀と同じく「虹を描き、その虹の橋を渡って黄泉の国へ」私も行きたい!

★ 私はナチスドイツのアウシュビッツ収容所から奇跡的に生還したオーストリアの医師ヴィクトール・フランク博士の、「芸術は人々の魂を救い、生きる力を与えてくれる」という言葉に深く共鳴しました。…これからの病院は病気を診断し、治療するだけでなく、こころを癒す機能があるべきだと考えたのです。おかげで。メディカルセンターは「絵のある病院」として人く知られるようになりました。13p

★「私の絵には画風がありません。絵の師匠も弟子もおりません。群れず、慣れず、人に頼らず、同じものを二度と描いてきませんでした」とおっしゃる。この「群れず、慣れず、頼らず」という言葉は堀先生の信条であり、心を打ちます。175p

2016年5月4日水曜日

「知らぬが仏」

 「がん検診は99%が「誤診」?意外と知らないデータの真実」は昨日のヤフーの記事。がん検診は受けたことがない。がんにはならない、という変な自信がある。とはいっても一般検診は毎年2回受けている。今のところ異常なし。

 先日ある人と話していると健康な人がバリウムを飲んで受診したところ、それが排泄されずに非常な痛みを伴って救急で運ばれてお腹を切ったと聞いた。その後、その人は治ったお腹を再度切って何かを出したとそこまでは聞いている。元気な人がちょっとした手違いで余計な手術までして生死の境をさまよう。これほど恐ろしいことがあるだろうか。一緒にお話を聞いていた人はバリウムでなく胃カメラで検診すると話される。

 たとえがん検診を受けても90 %が疑いありとはほぼ全員ががん!?検診後の結果、陽性となればそれを聞いて精神が「がん」になりそうだ。余計な心配をするよりも「知らぬが仏」で生きていく。これでいい!
http://bylines.news.yahoo.co.jp/mamoruichikawa/20160503-00057271/  (参照)

 一日中降り続いた土砂降りの雨。今朝は雨も上がってすがすがしい五月の空。昨日は一歩も外に出ずに本を読む。本のタイトルは『五色の虹』。これは第13回開高健ノンフィクション賞本賞受賞作品。ひさびさに本らしい本を読む。近いうちこれをブログにアップしよう。新聞の新刊紹介記事でこの本を知って読む気になる。とても感動する本だった。

 先日の旅で知り合った人はブログを拝見するともうすぐ地中海クルーズに行かれるそうだ。他の人も次はオーストラリア、と話されていた。皆さん、お元気で旅を続けられている。お元気で楽しい旅を…。

 GW真っ只中、さて今日は?ともあれ今日も元気で!

2016年5月3日火曜日

津和野の旅

錦川に80年も生き続ける鯉が泳ぐ つわぶきもある。
  新緑の5月、所属する某文化交流の会から22名でバスをチャーターして津和野へ向かう。その目的は日本画家平〇治氏の津和野での個展見学。お天気にも恵まれて絶好の行楽日和となった。平氏は日本美術院の院友。今年の春の院展に習っている日本画の先生とともに入選される。津和野の展覧会は「石州和紙に描いた日本画展」と題され「津和野街道&津和野多美(旅)の詩」とある。

 ここ津和野は20年以上前のお正月に母や姪たちと訪れている。太鼓谷稲荷神社と町を流れる川に鯉が泳いでいたことを思い出す。久々に訪れると災害などで川の水も汚れ、以前の清流に取り戻そうとされている。それでも鯉は被害を受けず大きく太って育つ。80歳(?)の鯉も多いそうだ。
街を縦貫する錦川
  町内の人から観光ガイドを聞いた後、お昼をいただく。5月はじめなのに気温はあがり、最高気温28度の予想。暑い!食後のフリータイムに皆で歩いていると会長は「焼きアイス」を目にされる。パンのようなものにアイスを挟んで焼いてある。初めていただく。いただく前、その場に立ち止まり「愛がある!」と言うと会長曰く「愛はないが金はある!」。お得意のジョークが出る。居合わせた人全員で会長にごちそうになる。謝謝!

 このごちそうはさらにある。数人で太鼓谷稲荷神社まで階段の道を上って参拝。暑い!汗が噴き出る。降りてくるとまたもや会長と遭遇。そして再度皆で会長から珈琲フロートなどごちそうになる。ここでもやっぱり「愛はないが金はある!」。冷たいモノでホッと一息。感謝!
焼きアイス

津和野川
  神社に参拝するとお稲荷さんの神社らしく、お供えの「揚げ」を目にする。神社の近くでお供え用の揚げを販売しているのだろう。
太鼓谷稲荷神社 お供え物は「揚げ」

神社を背に向うを見る
  神社参拝のあとはマリア聖堂に向かう。聖堂内は一般的には椅子が多い。ところがここは畳が敷いてある。3日開催の乙女峠まつりの山車(?)も用意されて聖堂の周りも準備真っ最中。

 久々の津和野の旅もあっという間に時間が過ぎる。次回、皆さんと会うのは7月の納涼祭。そして10月末の中国への旅となる。今日も元気を出して!

 忘れていることがある。津和野とは「つわぶきの野」からその名がついたそうだ。鯉が泳ぐ川のそばにはいたるところでつわぶきを目にした。
マリア聖堂

聖堂内部 畳が敷かれている
翌日に控えた乙女峠まつりの山車(?)

2016年5月2日月曜日

某ウインドアンサンブルを聞きに行く

 サキソフォン奏者の須川展也がゲストの演奏会に出かける。会場は旧厚生年金会館。大きな会場に着くと、会館の建物を囲むように人の列が続く。最後尾を探して長蛇に並んで会場に入る。座席はすべて自由席。人の多さに呆れてもうどこでもよくなる。やっとのことで中に入るとこれまた列が続く。客席をさがすとすでに満席状態。仕方なくどんどん舞台に進んで行くと通路側に席が一つ空いている。通路より中に座っていた男性に空席の有無を尋ねるとOKとのこと。なんと舞台から5列目の席。目の良くないモノにとっては良い席となった。

 市内にある某ウインドアンサンブルの第30回定期演奏会。この指揮者と須川は芸大の同級生だそうだ。その縁でゲスト出演。それにしても超満員の観客で演奏曲目もその内容も素晴らしい演奏会だった。もう満足!それにしても演奏曲目のうち、3曲はスペインにちなんだ曲。これもよかった。また演奏時間も3時間近くあった。

 演奏曲目は♪スペインの市場で♪、♪BIRDS -アルト・サキソフォンと吹奏楽のための協奏曲♪、♪グラナダ♪、♪追憶のテーマ♪、♪ミュージカル「レ・ミゼラブル」より♪、♪スペイン♪などあり、他にも多数演奏された。舞台も映像や照明など趣向を凝らしてとてもアマチュアとは思えない素晴らしい演奏会だった。

 アンコール曲も1,2曲でなく聞いた曲だが曲名はわからず。ただ♪この道♪だけはわかった。それにしてもサックスはいい!トランペットと絡むとなおさらいい!

 出かける前までカープの試合をテレビで見る。出ようとすると次第に点が入る。会場で列に並びながらワンセグで試合を確認。あわや、と思ったら何とか勝った!気を良くして演奏を聞く。演奏後に乗ったJRはカープ列車。今年初めて乗る。乗る前に急いで携帯で写す。黒田投手仕様の車両だったが、そこは前に人がいて写せず残念。写したのは背番号25の新井選手仕様の車両。

 昨日の中国新聞に「日本画で伝える津和野街道の多美(旅)」、サブタイトルは「廿日市の平さん個展」の記事がある。今朝は早くからその人の絵を見に津和野へGO~。某文化交流の会の行事に参加する。今日も一日元気で!

カープ列車

2016年5月1日日曜日

「元気で 楽しく 一生懸命」

 起床前に携帯でワンセグを見る。「ボクらの時代」に柴田理恵、久本雅美、林家正蔵の3人が出演。ほんの2,3分くらい見る。番組も終わる寸前なのか最後の締めで、それぞれいいことを話す。

久本 「自分に飽きないように前進し続ける」
林家 亡くなる寸前の先代との会話から「元気で 楽しく 一生懸命」と教えられる
柴田 「昆布のように」(だしを取る材料の昆布は他のどんなだしともあう)

 このうち林家の「楽しく」は「明るく」の聞き間違いかもしれない。ともあれ柴田の「昆布」は思ったこともないけれど言われてみればそうかもしれない。他の2人の言葉は同じ意見。とくに林家の言葉はいつも心掛けている。

 新緑の季節。昨日届いた郵便物に6月にでかける予定のバス旅がある。催行されないモノと思っていた。とりあえず、GW明けに旅費を振り込もう。他にもジパング倶楽部、美術館友の会などいろいろ届く。書類を見ては遊ぶ計画を立てる。これも楽しみといえばささやかな楽しみ。

 その合間に泳ぎに行く。昨日も1キロ泳ぐ。水中歩行の人よりも泳ぐ人が多い。平日でないため、親子連れもやって来る。そういえば、図書館に予約していた水泳上達泳法の本、2冊確保。本に頼ってもうまくならない。そう分かっていてもうまくなるかも、と思って見てしまう。

 今夜はサキソフォン奏者の須川展也がゲストの演奏会。かなり前からチケット購入。今日も元気で!

 動画は♪精霊の踊り♪から。この人のフルートも哀愁があって素晴らしい!