2016年3月14日月曜日

『老いては自分に従え』

 『老いては自分に従え』(山藤章二 岩波書店、2015年)を読んだ。以下はその一部を抜粋したもの。

  よそ。いつまで書いてもキリがない。ほとんどが不必要な物だ。のせられるのは確固たる”シアワセ基点”を持っていない連中だ。身の回りをモノと情報に囲まれていないと生きている実感を得られない気の毒な連中だ。

「モノは部屋を狭くし、ココロは人間を広くする」
「文化は過去に属し、文明は現在に属す」
「文明とは、人間を劣化させるシステムである」
「モノとココロはシーソーの両側に座る」
「人間はロボットに憧れ、ロボットは人間に近づこうと努力する」
(中略)
「スマホの出現によって、若者は紙の本から離れた。指先ひとつで得られる知識や文字は、またたく間に忘れる。手間をかけない知識は得ると同時に忘却するのである」
「最も確実なボケ防止は、脳を搾りに搾って記憶のひとしずくを得る作業である」
箴言はいくらでも出てくるが、言っていることは<過去礼賛、未来絶望>ばかりである。老人のノスタルジーと言われたらそれまでだ。でも、どんな人間でもいつかはそうなる。そのくり返しだ。(57-58p)

 「どんな人間でもいつかはそうなる」、そう、いつかでなくても老人になっている。昨日のボケ行動。お墓へ参る。途中、暑くなり2枚も服を脱ぐ。これがいけなかった。家に帰ると左腕にかけていたカーディガンがないのに気づく。腕においたまでは覚えている。それよりもお墓に活けてあった枯れた花を持ち帰るほうに気が取られた!?ゴミはしっかり持ち帰っている。

 お昼を食べて再度お墓へ参る。カーディガンが欲しいのではなくやっていることが怖ろしい。その確認に出かける。もう少しすると辺境の地へ旅をする。こういうことじゃ、先が思いやられそう。道中、キョロキョロするが落し物はない。ない、と気づいただけでいいじゃない?と自分に言い聞かせる。きっと、これを見ていた親はまたまた言うに違いない。「そういうことでどうするん?まあ、怪我でなくてよかったよ!」。

 「老いては自分に従え」、とはいっても従う「自分」がしっかりしていなくてはいけない。ボケないように今日も頑張ろう。これから合唱へ、GO~。

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