これから2週間先の天気を見ると相変わらず35度前後の日が続く。奈良で熱中症を体験したためか暑い日はこれまで以上に気をつけるようになった。どちらかと言えば寒いよりも暑い方が好きだった。が、これからはそうとも言えないかもしれない。奈良の過酷な暑さを経験すると寒い方がいいと思ったりもする。
以下は『司馬遼太郎 街道をゆく夜話』(司馬遼太郎 朝日新聞出版、2016年第7刷)から気になる箇所を記した。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★日本は源平交代思想があり、日本の武力政権を樹立した最初は平家であったがそれが源氏の鎌倉政権にとって代わられ、その鎌倉政権は平氏の北条家にとられ、北条家は源氏の足利氏にとられ室町幕府になった。信長のころは室町幕府はあってなきような存在であったが、とにかくそれを倒すものは平氏でなければならず、そのために信長は平氏に改姓した。そのとき同盟者の家康も藤原氏を源氏にあらため、その旨朝廷に請願した。源氏に改めるについては証拠がなければならず、その証拠を作るについては遠祖徳阿弥の寝物語が生きてきたのである。「わが遠祖は、上州利根川ぞいの徳川村に住んでいた新田源氏の族である」ということになり、姓も徳川と改め、これ以後、家康は正式に署名するときは「源朝臣家康」と書くようになる。(「上州徳川郷」60p)
★おなじ長州人の槙村正直を京都の司政者(最初は京都府出仕、のち大参事、権知事、知事)とし、槙村の企画の実現をできるだけ後援した。槙村は明治元年以来、十年以上京都府の施政に没頭したが、かれがやった仕事は明治期のどの地方長官よりも大きな業績をあげている。全国にさきがけて最初に小学校がつくられたのは京都だったし、女学校の濫觴(らんしょう)である女紅場(じょこうば)、日本最初の美術学校である画学校、さらには博物館、外国語学校、図書館、駆黴院(くばいいん)、窮民授産所、測候所、化芥所(けがいしょ)、産物引立会社、舎蜜局、博覧会、織殿、染殿が設けられるなど、施設面での文明開化は、東京に匹敵するほどに華やかだったといえるかもしれない。もっともこれらは木戸が死に、槙村が去ると、あとはその発展力が停頓してしまうのだが。(「『京都国』としての京都」)165p)
★枚岡(ひらおか)の夕景。この里は、生駒連峰のふもとにある。陽が、いま、ちぬの海(大阪湾)に落ちようとしているところだ。徳川家康は、このあたりから大坂をのぞんで、この山河に食欲をおこした。かれをして豊臣家を亡ぼそうと決意させたのはこの壮大でゆたかな風景をみたからだと伝えられる。石切からみた大阪の灯。生駒山の中腹を近鉄の奈良線が走っている。石切は、その小駅である。駅から西をのぞめば、河内、摂津の平野がひとめにおさめることができ、陽がおちはじめる時刻には、はるかな大阪の灯が宝石のようにかがやく。……夜の大阪城。夜景のいい城として推そう。くっきりと夜空に浮かぶこの幻想的な風景は、太閤秀吉でさえみることができなかったものだ。(「大阪八景」172p-173p)
★日本仏教は、隋・唐の仏教を御し元にしているが、唐の長安の盛時も、行楽の名所と言えば、寺であった。私は大和の長谷寺や当麻寺がなぜ牡丹の名所なのかよくわからなかった。奈良県のひとびとはいまでも花見は桜ではなく、牡丹であり、牡丹の花のそばにむしろを敷いて酒を飲み。唱をうたったりするのである。長じてこの風が唐の長安のものであったことに気づいた。牡丹の季節になると長安人士は気もそぞろになり、「一城ノ人皆クルウガゴトシ」といわれたが、その当時、長安城内の大寺にはたいてい牡丹の庭園があり、ひとびとはそこへ押しかけたという。その型を、奈良朝のころ、遣唐使船でもどってきたひとびとが、大和に移植したにちがいない。住吉にはそういう花の名所がない。(「江戸期の名所文化―大阪の住吉を中心に」)177p)
★人間は、古代から「暮らし」のなかにいる。森青蛙が樹上に白い泡状の卵塊をつくるように、シベリアのエヴェンキというアルタイ語族の一派が、河畔で白樺の木の家をつくり、鮭をとり、鮭を食べ、鮭の皮の靴をはくように、私どもはあたえられた自然条件のなかで暮らしの文化をつくり、踏襲し、ときに歴史的条件によって変化させてきた。人間という痛ましくもあり、しばしば滑稽で、まれに荘厳もある自分自身を見つけるには、書斎での思案だけではどうにもならない。地域によって時代によってさまざまな変容を遂げている自分自身に出遭うには、そこにかつて居た――あるいは現在もいる――山川草木のなかに分け入って、ともかくも立って見ねばならない。……樹上の森青蛙は白い泡状の卵塊から下の水中に落ちて成体になるのだが、ひとびとの空想も、家居(かきょ)しているときは泡状の巣の中にあり、旅に出るということは、空想が音を立てて水の中に落ちることにちがいない。私にとって、『街道をゆく』とは、そういう心の動きを書いているということが、手前のことながら、近ごろになってわかってきた。(「私にとっての旅『ガイド 街道をゆく 近畿編』367p-368p)