2024年8月31日土曜日

猛暑日が戻ってきた!

 台風の影響で2日間、猛暑日にならなかった。が、この間、買い物にも行かず家でじっとしていた。今朝は9時になると自転車に乗ってスーパーへ行く。帰宅後、しっかり汗をかいて猛暑日の再度到来となる。これから先2週間の天気予報によると暑さは収まらず最高予想気温が34、5度となるようだ。

 昨日、リフォームをお願いした電気店から電話があり、来週、キッチンのショールームに案内してくれるという。工事時期はまだ先だが徐々にその日が迫っている。工事は1か月間かかるらしく、その間は家を留守に出来ない。当然、遊びにも習い事にも行けず、工事が終わるまで家の中でじっとして過ごすしかなさそうだ。かなりストレスになる気もする。が、工事の一日一日が過ぎてゆき、家が綺麗になって快適な生活になる日を楽しみにして待つしかない!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月30日金曜日

旅の思い出 アンコールワット

旅の思い出 AIR MAIL 絵はがき
 今回の旅の思い出はカンボジア。自分宛てに送ったAIR MAILにつぎのように書いている。「カンボジアへの道のりは遠い。昨日、やっとクメール(バイヨン)の微笑みに出会う。想像をはるかに超え、本当に大きい、すごい。治安は全く良く、どこもきれいにしようと意気込みはすごい。人々も一生懸命で感激のしっぱなし。1995.8.16 AM5:00」、追記として「今からアンコールワットの日の出を見に行く」と書いている。自分が書いた絵はがきなのにどこの国に出かけたよりも旅の昂奮が伝わる。

 アンコールワットの日の出は今でも鮮明に覚えている。大きな橋を渡るとき、ツアーの教師をしている若者は、「カンボジアの旅に人生をかけている」と大きな声を出して宙返りした。そのこともあってよく覚えている。他にも記憶に新しいことはキリングフィールドの映画の舞台になった虐殺現場である。人の白骨化した頭蓋骨が塔のようになった建物に入れてある。此の世のこととは思えないほどの悲惨な光景を目の当たりにした。カンボジアの旅はもしかして自分が生きてきた中で一番悲惨な場所だったように思う。

 台風10号の影響で学校も図書館もJRもすべて止まっている。雨も風も今のところ落ち着いている。が、これから先はさてさて。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月29日木曜日

リフォームの見積もり書

 この秋に家のリフォームを予定している。先月初め、依頼した電気店と施工業者が見積もりに来られた。昨日、近くの電気店の店長が工事の見積もり書を持って来られる。その寸前、かけていた眼鏡のレンズの片方が外れた。すぐに三越の眼鏡屋へ行こうと思いつく。エアコンを切って身支度をしていると電話が鳴る。電気屋だ。今から見積書を持ってくるとのこと。

 三越は又の機会にして電気店と見積もりの話をする。出かけようとしてエアコンを切ったばかりで、ましてや切った後、自動でお掃除タイムが始まる。これは結構時間を要する。その旨電気屋に話すと、エアコン停止後、お掃除タイムがはじまってもそれを停止してエアコンがつけられるという。そして手動でお掃除タイムができると教わる。それならば、とすぐにエアコンをつけた。この夏、買い替えたエアコンで手動でお掃除タイムができるとは驚き。

 電気店と見積もりの話の後、リフォームの工事でWIFIの切断などが気になる旨の話をした。WIFI、と話した時、電気店の店長は我が家のパソコンとWIFIを線でつないでいるのを見て、スマホのように無線でWIFIを接続できると話される。昨日まで線でつないでパソコンを利用していた。が、とくに不自由もなく何も思わずにいた。しかし、無線でWIFIを接続できると聞いてすぐに教えてもらう。

 ところがこの2,3日、パソコンの起動が遅い。教わる時もかなり起動が遅かった。が、パソコンのWIFI接続のアイコンにパスワードなど入力してすぐに接続できた。

 知らないことを教わると嬉しくなる。ただ、起動が遅いので昨日の夜、寝る前になってウイルスバスターのシステムチューナーを開始した。システムチューナーの完了後までには時間がかかった。が、これがよかったのか今朝のパソコンの起動は以前のようになった。

 IT関係のそれもパソコン関係の話ができる友だちがいない。そう思っていた矢先に電気店の店長が詳しく教えてくれた。店長は50過ぎでまだ若い。電気製品だけではなく、いろいろと電気店にお世話になっている。これに加えて昨日はパソコンのことまで教えてもらった。

 リフォームは1階部分の大半をする。費用は自分が生きてきた中で2、3番目くらいの大きな出費になる。今はまだ元気なのでリフォームをする決心がついて本当によかった!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月28日水曜日

絵はがき

 先日、日帰りバスツアーで周防大島に出かけた。その際、西長寺の和尚からツアー客に絵はがきやちょっとしたものなどをいただいた。絵はがきを見ると和尚が描いている。「この世に極楽を作りませう」のケイシとは和尚のことで恵史のようだ。同じツアーは来月にもある。
和尚が描いた絵はがき
 このツアーのように個人ではなかなか行かれそうにない場所へはツアーがあるとありがたい。広島から近い場所にまだまだ知らない、いいところがある。せいぜいツアーを利用しよう。それにしても毎日本当に暑い!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月27日火曜日

サマーコンサートを聞きに行く

 先週の土曜日、家の近くの区民センターで開催されたAKI弦楽合奏団サマーコンサートを聞きに行った。久しぶりの演奏会だったが、弦の優しい響きにバリトンが加わって元気の出る素晴らしいコンサートだった。バリトンは山岸玲音で島唄、千の風になって、花、そしてアンコール曲はマイウエイが歌われた。今の世の中、何かに追われているようにせわしなく過ぎてゆく。そんなときに聞くゆったりとした沖縄の曲は聞く者の気持ちを和ませる。弦とバリトンの音が上手くマッチしたいい演奏会だった。

 プログラムによるとバリトン歌手は2年前に急性リンパ性白血病を患っている。最近、近所の某店の奥さんから以前に骨髄性白血病を患った話を聞いている。どうして白血病になるのか知らないが怖い病気のようだ。そのこともあるのか、バリトン歌手の歌う歌が異常に力強く歌っている気がした。そして聞くものを勇気づける。なお弦楽合奏団の演奏は歌に加えてシベリウスのアンダンテフェスティーボ、ドボルザークの弦楽セレナーデ第1楽章から第5楽章まですべて演奏された。

 今日も暑い。9時になると自転車に乗ってスーパーへ行った。先日、この夏はじめてのサンシャインマスカットを買った。しかし、雨が少ないためかとても甘いが果皮は固くて食べられそうにない。今日はイチジクを購入。イチジクは雨が降らない方が美味しいに違いない。後でいただこう。まだまだ暑さは続くようだ。その前に台風がやって来る!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月26日月曜日

周防大島への日帰りバスツアー

 「瀬戸内のハワイ周防大島!日見大仏と竜崎温泉」と銘打った日帰りバスツアーに参加した。ツアーの参加者は14名と少なく、いい旅だった。ただ、暑さは半端ではなく、7月の長谷寺と室生寺の厳しい暑さを彷彿させる。

 周防大島は20年ぶりに出かけたが、以前出かけたのと違って初めてのことばかりだった。周防大橋をバスが渡る際、車窓から写真を撮った。大島に入ると田んぼが広がる。どこへ出かけても田んぼを見かけなくなったので車窓から写す。黄色く穂が実っている田んぼもあった。この夏はコメ不足とか。早く新米が実るといい。

大島大橋を通過するバス車窓から写す
バス車窓から見える田んぼ
 今回のツアーの一番の目的は西長寺の日見大仏がある。出かける前にネットで調べてこの大仏を知る。そして出かけて知ったジョアン・ミロの作品が展示された庫裡がアートミュージアムとなっていた。入る前にモモの香りがするアイスティーをいただく。バスから降りてお寺までの道のりを数分歩く。炎天下の中、昨日も暑さが半端でなく熱中症に気を付けながら歩を進める。到着後に飲んだアイスティーのなんと美味しかったことか。

 庫裡に向かう前に鐘をつく。元の梵鐘は戦時下に供出のためなくなった。が、1959年当時の和尚恵信が復興と平和の象徴として新たな梵鐘を迎えた。その際に、檀信徒と共に当時の総理大臣岸信介と大蔵大臣佐藤栄作兄弟の信援も賜っている。今では考えられないが、そのこともあって「大出世の鐘」とも言われている。この鐘をつかずには帰れないと思って3番目に鐘をついた。毎日夕暮れ時に鐘六つがつかれているようだ。
大出世の鐘
 広い庫裡に入るとミュージアムになっていた。この寺の懇意な信者さんだろうか、ジョアン・ミロの作品をあつめられている。それをすべて譲り受けられたそうだ。作品数は4百数十点あると和尚は話された。ミロの作品に詳しくはないが広い庫裡にうまく展示されていた。庫裡の中2階に上がるとミュージアム全体が見渡せる。また中2階にはチベットなどの仏像が数多く展示されていた.

中2階からミュージアムを見る

中2階の仏像の数々の仏像

中2階からミュージアムを見下ろす
 ミュージアムを見学後、隣接する日見大仏を見学する。立派な大仏だがこのツアーに参加するまで知らなかった。この大仏は国の重要文化財で正式名称は「木像如来阿弥陀坐像仏」だそうだ。
境内からの眺め 耕作放棄の田んぼに
地元有志による石像などが造られるとか

木像の阿弥陀如来像の日見大仏

横からの日見大仏

境内にこの黄色い花がたくさん咲いていた 
メランポディウム



西長寺
 西長寺の和尚について1時間半見学後、次に向かうは竜崎温泉ちどり。ここで穴子釜めし定食をいただいた後、各自温泉に入る。フリータイムが2時間ある。外に出ても暑いだけだ。温泉に入る気はなかったが、もしかして入るかもと思って下着の替えだけ持参した。食事後すぐにお湯につかる元気がない。しばらく休憩しても時間があるのでタオルを買って温泉に浸かった。

 お湯につかって出た後は暑くてたまらない。ツアーの参加者には温泉が目的の人もいる。温泉好きではないがお昼にお湯に浸かった。プールには違和感なく浸かるが温泉はどうも、という感じになる。これはなぜ?

 夕方広島に着くとサンフレッチェの試合とカープの試合があるらしく、街中は紫と赤のユニフォームが行き交う。とはいっても紫色は紙屋町界隈で赤は広島駅界隈だが。

 先ほど昨日出かけた西長寺のHPを探すとフェイスブックがあった。それを見ると昨日のツアーのことが記されている。何と91歳の人が参加されていた。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月24日土曜日

旅の思い出 バチカン市国

 今回の旅の思い出は1992年5月に出かけたイタリアの旅。バチカン市国から自分宛てに出したAIR MAIL の絵はがきがある。「今、バチカン市国に居る。一番高い塔に登っている。本当に暑い。夜はカンツオーネを聞きに行く。サンピエトロ寺院にて。1992.5.6 PM2:45 」と書いている。

 この旅では新しい靴を履いて出かけた。それも革靴である。午後、2時45分に書いているのでこの日はフリータイムのようだ。しかし、連日、ビールを飲んでいたのと新しい靴のため、足がはれて痛くてたまらなかった。その夜に聞きに行ったカンツーネは足の痛さが増してあまり覚えていない。

 これ以降、旅では新しい靴、ましてや革靴を履かない、と心した。この旅は一人参加でなく友だちと一緒だった。フィレンツエの町などよく歩いたが、またビールもよく飲んだ。

 あれから32年の歳月が過ぎた。今でも元気に旅を続けている。これからも元気を出して旅をしよう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

バチカン市国 AIR MAIL 絵はがき 

2024年8月23日金曜日

『司馬遼太郎が考えたこと』(7)

 『司馬遼太郎が考えたこと』(7)(司馬遼太郎 新潮社、平成十七年)を読んだ。いつものように気になる箇所を記そう。
 
★要塞攻撃は、弱点を見出し、そこに攻撃力を集中するというやり方でなければならない。岩を割る時に条理を見出し、そこに鑿(のみ)を入れてゆくということと同じである。が、乃木軍司令部はこのかんじんの弱点さがしについておよそ疎漏であった。第一線からの情報を総合すればほぼ見当がつきそうなものだが、参謀たちが各前線に身を挺して行く
ことが絶無だったため、弱点をさがす感覚が鈍感なままだったのであろう。旅順要塞の弱点は二百三高地で、ここを発見するのは攻略の最終段階でやってくる児玉源太郎であったが、じつは攻略の当初から、要塞を海上からみている海軍側が、「二百三高地は、どうやらあまり防御が施されていないだけでなく、ここを占領すれば旅順港を見下ろすことができる。従って二百三高地に大砲をひきあげれば、港内のロシア軍艦をうち沈めることができる」と申し入れてるのに、乃木軍司令部は黙殺してしまった。……これだけのばかばかしい失敗が、戦後、国民の前で検討され解剖されることなく、それをむしろ壮烈悲愴という文学的情景として国民にうけわたされたところにいかにも日本らしい特徴があり、そのことが、張鼓峰、ノモンハン、太平洋戦争という性懲りもない繰りかえしをやってゆくもとになったのである。(「”旅順”と日本近代の愚かさ――『明治』の戦争の未発表写真を見て」149p-150p)

★私は二十前後のころから、中国文明の周辺にいる国家群に関心をもっていた。東洋史上、北アジアや西北アジアにその他の中国辺境にあらわれては消える大食(たいしょく)、大月(だいげつ)、柔然(じゅうぜん)、鮮卑(せんぴ)、烏孫(うそん)、烏桓(うがん)、大宛(だいえん)、西夏(せいか)、匈奴(きょうど)などといった国家、もしくは民族の漢訳名が、なんと妖しい魅力にみちていることであろう。かれらの多くは、中国文明に化せられなかった。儒教化せず、固有の生活形態と倫理をまもっていたために、中国からは蛮族とみられた。モンゴル人もそうであり、モンゴル人にかわって中国の辺境にびっしりと張り付いているロシア人たちもそうであるにちがいない。(あとがき『人間の集団について』159p-160p)

★人間の厄介なことは、人生とは本来無意味なものだということを、うすうす気づいていることである。古来、気づいてきて、いまも気づいている。仏教にしてもそうである。人間は王侯であれ乞食であれ、すべて平等に流転する自然生態のなかの一自然物にすぎない。人生は自然界において特別なものでなく、本来、無意味である、と仏教は見た。これが真理なら、たとえば釈迦なら釈迦がそう言いっ放して去ってゆけばいいのだが、しかし釈迦は人間の仲間の一人としてそれでは淋しすぎると思ったに違いない。このため、釈迦は入念なことに人間どもに対し、自分が自然物にすぎず、人生は本来無意味だということを積極的に、行為として悟れ、と言った。悟るという行為で、人生に唯一の意味を見出した。本来無意味の人生においてこれ以外に意味を見出せないというのが、仏教のように思える。しかし、われわれ現に生きている者としては、その程度のことをわざわざ悟るなどという面倒なことを、ほとんどの者がしたくないと思っている。といって、一面、自分の人生に――
人の人生ではなく――多少でも意味を見出したいと思っている。(「富士と客僧」448p-449p)

★司馬氏には、どうも一個の強烈な美意識があるらしい。……氏はどうも、こういう美意識にかなう人間の、またかなう時期だけを、描いているようだ。……司馬氏の歴史小説の世界は、こういう美意識でつくられた世界であると思う。そしてその美によって、それは読者に訴えやすい。しかしそれが多くのものを捨象してなる世界であることも、また否定できないであろう。もしかりに「あるがままの歴史」とでもいうべきものが存在するとすれば、それは司馬氏の歴史小説の世界よりも、はるかにどろどろしてなまぐさく、重みをもったものなのではあるまいか。(「司馬遼太郎の美学」亀井俊介 497p-498p)

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月22日木曜日

ワッサー

 まだまだ暑さは続くようだ。朝のうちに用を済ませようと自転車で出かける.眼科に行く前に図書館によって本を返却。眼科に着くと患者が多い。午後から休診になるので多いのかもしれない。眼圧は14と16。

 眼科を出るといつもとは違う駅前のスーパーに行く。暑い時季はリンゴの値が髙くなる。その間はネクタリンやプラムなどの果物をリンゴの代わりとしていただく。今日のスーパでネクタリンに似ているが パッケージの表示がワッサー、と書いてある果物を購入。そのそばにはネクタリンやプラムが並んでいる。ネクタリンとプラムの区別は形が違うのでわかる。が、プラムとスモモの区別がつかない。

 桃とネクタリンからワッサ-はできている。早速食べてみると桃の味がする。味だけでなく表面に着く産毛も桃に似ている。ネクタリンは産毛がなく表面はつるっとしている。またプラムとスモモは同じらしい。

 秋になると美味しい果物がスーパーに並ぶ。今年はネクタリンをよく食べる。イチジクも出回りそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
ワッサー(上) ネクタリン(下)

2024年8月21日水曜日

暑さはいつまで!?

 某交流会から先日開催された総会の会報が送付されてきた。添付の案内を見ると会の庶務担当の余談として「我が家の家庭菜園では、カメムシの大発生と連日の猛暑に夏野菜はすでに枯れてしまいました。しかしなぜかトマトは、2メートルも高いところまで大きな実をつけ大収穫でしたが、もう終わりになりました」と書いてある。これを読んでスーパーの店頭に並ぶトマトの値が高くないと気づく。トマトは暑さに強い作物!?

 昨日は朝から泳ぎに出かけたが、それまでは暑さを口実にして一歩も外に出ない日があった。これでは体に良くないと思って近くのコンビニへ出かける。久しぶりにスマホの写真を写真プリントする。ところがスマホでアプリをかざす時、どこにスマホをかざすのかがわからない。係に教えてもらって写真プリントができた。これを絵のモチーフにするためにA3に拡大カラーコピーする。拡大の率を忘れて400倍でコピーした。が、大きすぎる。395倍で再度コピーしよう。

 今朝は9時過ぎにスーパーへ行く。行く前にエアコンの予約タイマーを設定した。しかし、今日の暑さも半端ではない。スーパーから帰ると大仕事をしたように汗びっしょりになる。この暑さ、いつまで続く!?9月になるというのに……。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月20日火曜日

朝から泳ぎに!

 今朝は9時過ぎから気合を入れてプールへ急ぐ。暑い、暑いと言いながらプールに行かずにいた。ひと泳ぎすれば元気も沸きだす。プールに着くと受付で回数券を購入する。が、2か月の間に利用券は自販機での購入になっている。

 久しぶりにプールに入ると夏休みなので子供たちもいる。その中に入って泳ぐと結構スムーズに泳げる。クロールで泳いでも以前ほどきつくない。久しぶりなので水泳を6往復、水中歩行を2往復した。水泳6往復は300mなのですぐに泳げる。そのうち半分はクロールで泳いだ。カンカン照りでなければなるべくプールで泳ごう。泳ぐと「なんでもできる!」ような大きな気持ちになる。これがいい。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月19日月曜日

旅の思い出 インド

インドのタジーマハール AIR MAIL絵はがき

 今回の思い出の旅は以前にもアップしたインド旅行。自分宛てに送ったAIR MAILを見ると「今、スリナガル。インド建国記念日ストのため、午前はダル湖遊覧、午後はヒンドウー教寺院へハイキング」と書いている。1989年8月のインドの旅だ。当時は松山千春にハマっていたのかバスの移動中、大流行していたソニーのウオークマンに入れた歌をずっと聞いて旅行した。この光景を思い出すほど
「大空と大地の中で」などの松山千春の唱をウオークマンで聞いた。しかし、そのウオークマンは何処へ!?懐かしい旅の思い出だ。

 このインド旅行は海外旅行をはじめてから8回目の旅となる。今、手もとにある旅のメモを見るとなんとこの8回(1986年からの3年間)の間に中国へ5回、ソ連に1回と共産圏ばかリ出かけている。個人的にはこれらの国の主義主張は好きではない。が、なぜか中国にハマっていたのと好奇心から見知らぬ国へ出かけたようだ。その間、勤めていた会社の社員旅行ではハワイに出かけている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月18日日曜日

日本画教室へ

 今日の最高気温は37度と暑くなりそうだ。明日からの天気予報を見ると今月末まで32,3度と、暑さは続くようだ。今朝、9時になると自転車に乗って開店早々のスーパーへ行く。後は一日ゆっくりしよう。

 昨日は日本画教室の日。大木を描いているが絵の完成までには至らず。というか急いで完成させなくても、との思いがある。その旨、前々回先生にお話しした。昨日、次に予定の絵を先生に相談すると話が矛盾していると言って笑われる。ゆっくり描くと言いながら次の絵を決めようとしたからである。

 次に描く絵は先日出かけた中津市にある薦神社の大木。何枚かの大木の写真を先生に見てもらってその中の1枚の写真を絵にする。教室の人はこの頃、花の絵を描く人が多い。個人的に花は好きでも絵にするには難しい。そのため、樹木を描く。

 教室が終わるといつものカフェに行く。教室もにぎやかだがカフェに入るとさらに話が弾む。今月の教室は昨日で終わった。次に皆に会うときは涼しくなっている!
  
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月17日土曜日

パリ・オリンピック

 ネット記事を見ると某著名人がパリ・オリンピックをまったく見ていないとある。自分自身もオリンピックに何の関心もなく全く見ていない。というかテレビをほとんど見なくなった。じゃ、何を見る?新聞は地方紙ながらも割とこまめに目を通す。しかし、オリンピックの記事は素通りした。 

 テレビ離れは以前よりも増している。いつの日かテレビがなくてもいいか?となりそうだ。しかし、先日テレビを買い替えたばかりですぐには壊れそうにない。

 猛暑日続きの昨日、広島市の最高気温は38度7分だった。暑い日中、図書館の予約確保の知らせが届く。朝、買い物に出かけなかったが日中に本を受け取りに図書館へ行く。その足で生協に寄る。朝よりも日中が暑いはずなのに午後2時過ぎは日陰の向きが変わる。自転車で行くには日陰になる午後がいいかも、と思ったり。

 テレビは見なくなったがその分、本を読む。そしてスマホを見る。どちらも目を酷使する。これが困りものである。が、幸い今のところいくら本を読んでも目は大丈夫。とはいえ目の酷使はよくない!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月16日金曜日

旅の思い出 エジプト

AIR MAIL エジプト 絵はがき

 旅先から自分宛てに出したAIR MAILが手元に10数通残っている.破棄する前にせっかくなので旅の思い出としてブログに載せよう。

 エジプトへは1989年12月の年末から翌年の年始にかけて出かけた。この年代は中国語にのぼせていたのでAIR MAILの文に中国語を混ぜている。

 「新年好!祝您身体健康、努力学習中文!学習進歩!オランダより飛行機で4時間半でカイロに到着(オランダ―日本 時差4時間 オランダ―カイロ 時差1時間)。温度20度。Cairo Delta Pyramids Hotel 」

 この中の「您」は丁寧語なので自分宛てには「你」が正しい。また「習」や「進」は簡体字だがパソコンで変換できずそのままで表記。当時のエジプトはスフィンクスの工事中だった。しかし、ピラミッドは中に入って観光した。ピラミッドの出入り口は狭いが中は結構広い。

 当時は父も健在だったので年末年始に海外に出かけていた。父なき後は年末年始の海外はやめて国内を家族で旅行する。

 今から35年前の旅になる。あっという間に35年の歳月が過ぎた。これから先の35年は到底生きてはいない。が、少しでも長く旅を続けられるように元気でいたい!昨日は早くも益田の宿を予約した。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月15日木曜日

『司馬遼太郎が考えたこと(6)』

 相変わらず狂うような暑さが続いている。今日は終戦記念日。世界を見渡せば先の終戦とは異なる現在の戦争が起きている。しかし、これに対して誰もが手をこまねくことしかできない!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『司馬遼太郎が考えたこと(6)』(司馬遼太郎 新潮社、平成17年)から気になる箇所をしるしたもの。

★明治十年代から日露戦争にいたる明治オプティミズムはたしかに特異な歴史をつくりかえたが、しかしどの歴史時代の精神も三十年以上はつづきがたいように、やがて終息期をむかえざるをえない。どうやらその終末期は日露戦争の勝利とともにやってきたようであり、蘆花の憂鬱が真之を襲うのもこの時期である。真之の場合は劇的な環境におかれた。日本海海戦において旗艦「三笠」の艦船上にいたかれが、かれの立案した戦術によって最初の三十分の猛射のあいだに大局を制したとき、敵味方の惨況をみて深刻な衝撃をうけ、この後、かれの精神は海軍部内のひとびとのいたわりのなかで守られた。かれは海軍をやめて出家しようとし、そのことを部内のひとびとからとめられると、自分の長男の大(ひろし)に僧になることをたのみ、げんにその長男は無宗派の僧になることによって父親のその希望に応えた。この天才は、敵の旗艦スワロフやオスラービアなどが猛炎をあげて沈もうとしているとき、そのことに勝ちを感ずるよりも明治をささえてつづいてきたなにごとかがこの瞬間に消え去ってゆく光景をその目で見たのかもしれない。(あとがき『坂の上の雲 五』101p-102p)

★日本の場合は明治維新によって国民国家の祖形が成立した。その後三十余年後に行われた日露戦争は、日本史の過去やその後のいかなる時代にも見られないところの国民戦争として遂行された。勝利の原因の最大の要因はそのあたりにあるにちがいなが、しかしその戦勝は必ずしも国家の質的部分に良質の結果をもたらさず、たとえば軍部は公的であるべきその戦史を何の罪悪感もなく私有するという態度を平然ととった。もしこのぼう大な国費を投じて編纂された官修戦史が、国民とその子孫たちへの冷厳な報告書として編まれていたならば、昭和前期の日本の滑稽すぎるほどの神秘的国家観や、あるいはそこから発想されて瀆武(とくぶ)の行為をくりかえし、結局は日本とアジアに十五年戦争の不幸をもたらしたというようなその後の歴史はいますこし違ったものになっていたにちがいない。(あとがき『坂の上の雲 六』186p)

★徳川将軍家というのは、始祖の家康を神とした。このふとった老人が死ぬと東照大権現という神号をつけたのは、京の天皇家に張りあうためであった。天皇家の始祖は伊勢神宮の天照大神である東照は天照と対をなすもので、その東照大権現である神の子孫が将軍職を継ぐというところも天皇家に似せていた。さらに天皇家よりもえらくみせるために、毎年、天皇家の眷族(けんぞく)である公家を例幣使として仕立て、道中をさせ、はるばる日光東照宮にまでゆかせて参拝させたのである。徳川家の攻略で、京の神が関東の神をおがみにゆくということで将軍家のえらさを庶民に知らせるためであった。この屈辱に怒った天皇はいた。しかしその家来の公家たちが憤死したという事実はまったくない。江戸時代の公家というものがいかにくだらない存在であったかがこのことでもわかる。(「人間が神になる話」213p)

★明治二十九年五月、かれはロシアのニコライ二世皇帝の戴冠式に参列すべく、特命全権大使として露都ペテルブルグにゆき、その戴冠式の荘厳さにおどろき、(日本もこうでなければならぬ)とおもい、帰国後、宮内省に容喙し、いままでの儀典を再検討させ、重厚さと神秘性をもりあげたあたらしい方式に変えさせた。――ロシア皇帝のごとく荘厳なものを。と山県がおもったことは、世界史的にいえばひどく戯画的な感じがする。この山県が飾り物とはいえ参謀総長の座について戦った日露戦争の結果、ロシア皇帝の国内における慰望がはなはだしく下落し、その敗戦がやがて革命をまねきよせる近因の一つになってしまったのである。(「権力の神聖装飾」261p-262p)

★坂本竜馬の不幸は大政奉還を着想してそれを成功させた歴史的プランナーとして殺されたのではなく、新時代に不要にあるはずの浪士群を始末しようとし、それが京都で大暴動をひきおこすというふうに誤伝され、その滑稽な風説によって殺されたというところにある。(「見廻組のこと」412p)

2024年8月14日水曜日

益田へ行こう!

 スマホで遊んでいると益田の荒磯温泉の宿に泊まった人の動画がある。動画はこちらが見たいと思って見なくても勝手に様々な動画がアップされる。益田は島根県に位置する。広島県と島根県は山陽と山陰の違いがあるが隣接した県である。しかし、松江や出雲へは出かけても益田市にほぼ出かけたことがない。

 中国語を習っていた頃、当時まだ若かった人は一人で益田市に行くと話していた。その人は柿本人麻呂に興味をもっていたが、その人と話しても当時は柿本人麻呂について何の興味もなく益田市にも関心がなかった。

 ところが、益田市を観光している人の動画を見て、「そうだ、益田に行こう」となった。と言っても益田についての何の知識もない。今朝、図書館に行って益田のガイド本を探すが、京都、奈良とちがって観光地でないためかガイド本がない。仕方なく「島根県の歴史散歩」を借りた。

 今やどこにいても地震などの災害に合わない保証はない。近年は大分県や奈良県などに出かけている。こういった山陽筋は新幹線が通っていて交通の便はいい。しかし、山陰へ行こうとすれば新幹線は通っておらず、バス便しかない.広島から益田までは3時間以上も要する。不便この上ないがこれも旅の楽しみになるかもしれない。今月いっぱいは暑くて旅どころではない。とは言え、今月末にバス旅を予約しているが……。9月に益田へ行こう。それまでに益田を知り尽くす!?

 図書館を出ると生協に行く。生協でブロッコリーを見ていると見知らぬ人から食べ方を聞かれる。教えてあげると何やら財布から出している。新興宗教の人らしく名刺大の大きさのパウチしたものをくれようとする。すぐにその人から逃げた。〇〇〇の証人、と言っていた。こういった人に関わりたくない。誰とも気軽に話すところがある。これがよくない。気をつけよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月13日火曜日

『老いたら好きに生きる』

  WHO憲章には、「健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます」とある。

 和田秀樹の本によるとこれを踏まえて「検査データの結果より、自分が満たされているかどうかが健康の基準なのです。そして、それを決めるのは本人の主観であって医者ではありません」(『老いたら好きに生きる』35p)と書いている。一般検診で検査結果を気にする方なのでこの言葉は自分にとっては大事と思った。

 『老いたら好きに生きる』(毎日新聞出版、2024年債3刷)を読んで気になった箇所を記そう。

★老いを遠ざけ、いつまでも元気で若々しくいるためには、「感情」を動かすことが何より大切です。なぜなら、人の老化は「知力」や「体力」よりも、まず「感情」の衰えから始まるからです。……そのためには前頭葉を使うことが必要です。前頭葉は「想定外なことへの対応力」という重要な働きを担っているため、「先の読めない不確実なこと」に積極的に取り組むことをおすすめします。……足腰を衰えさせないために歩くことが大切なように、前頭葉も使うことが感情の老化防止につながります。(41-41p)

★必要以上にテレビを見ないこと、これが、予期不安を抱えないための最良の方法です。……なんとなくテレビを見続けていると、思考力が低下し、前頭葉の劣化を早め、確実に身心の老化を進行させていきます。(187p)

 最後にあげた「必要以上にテレビを見ないこと、これが、予期不安を抱えないための最良の方法」には、同感する。特にテレビニュースの紛争や災害の映像を見ると感受性が強いものとしては体に良くない。諺に「知らぬが仏」とあるように知らずにいるのも幸せ!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月12日月曜日

塔婆

 今朝、早めに行くのはお寺。9時過ぎ、歩いて塔婆を取りにお寺へ行く。境内に入ると手前に我が家の塔婆が見えた。それをもってお寺に入ると若い女性が当番だった。いつもならお上人の奥さんがおられる。が、他の人に当番を頼まれたのだろう。お寺の娘さんかと思って聞くと違っていた。

 例年ならば塔婆をもってお墓に参る。しかし、この暑さではそれもままならない。お墓に参るのは涼しくなってから、と心に決めた。ただ、年中、開かずの仏壇だが、お盆の間は開けておこう。そして果物などをお供えしよう。

 この暑さはいつまで続く!?先日、日向灘地震が発生した。お盆の帰省客や観光客もこの地震に反応してか、とくに観光客の宿の予約キャンセルが続出している。この先、世の中がこういった地震などで先行きは不安になる。まだまだ旅行に行きたい。だが天変地異はどうすることもできない。困った世の中だ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月11日日曜日

まあ、いいか!

 日本画教室に出かける前に外貨を両替しようと思った。広島駅で下車し、新幹線改札口近くに置いてある外貨両替機に向かう。近づいてゆくと列をなしている人がいる。その時点では何も疑問に思わず列に並んだ。並んでしばらくしてその列の隣にあるのが外貨両替機とわかる。すぐに機械を操作するとパスポート挿入をしても画面に何の反応もない。設置してある受話器で係と話すが駅通路のため乗降客でごった返し、また駅のアナウンスも相まって受話器の音が聞こえない。やっと聞こえたと思って話すとパスポートに埃がついているのでは?と言ってほこりを払うように諭される。しかし、それでも機械が反応しない。何度か試みるも埒が明かない。

 係は又の機会を、という。仕方なく諦めてその場から立ち去る。その間、頭から顔から汗がしたたり落ちる。手にはパスポートと外貨を持っている。どこかに落ち着いてバッグに収めたい。切符売り場に行ってそこを台にしてバッグに収める。その後、再度JRに乗って日本画教室に向かう。教室に着くと遅く行ったので心配される。こちらとしてはもう汗びっしょり。絵を描く気にならない。

 夜、寝る前にパスポートの挿入が裏表?と思ったりした。合点がいかずスマホで操作手順を調べるも同じ機械の動画がない。別に今両替しなくてもいいのだが思いつくと何でもすぐに済ませねばならないところがある。この辺は性格を改めてまあ、いいか、と思うようにしよう。

 絵が終わると皆でいつものカフェに行く。とりとめのない話で盛り上がる。これも楽しいのでまあ、いいか。今朝は開店すぐのスーパーに出かける。今年初の三次ピオーネを買った。この暑さでお盆の墓参りを延期するつもり。少しばかり両親に申し訳ない気持ちになる。三次ピオーネを仏壇に供えて赦してもらおう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月10日土曜日

大型ごみの予約

 20日の大型ごみの収集日までに追加があれば前日までに電話すればOKとのこと。予約していた大きな額から鏡の付いた少し小さい額に変更した。ついでにと思って探すとまたも額が出て来た。これを追加すべく市の大型ごみに予約した。すると小さい額であれば額2点を結んで1個にして出せばよいとのこと。そう聞いて少し驚く。というのも以前、寿司槽を大型ごみとして出した。その際、丸い寿司槽の径が30㎝以上だったのでこれも大型ごみ?と訝りながらも予約した。やはり大型ごみだった。

 昨日の大型ごみの係は親切な人なのか「くくって一つにすればいいですよ」、と言ってくれる。ああじゃこうじゃと言っても一般的なモノであれば1件250円なのでどういうことはない。が、それでも「くくって……」は驚き。

 まだまだ処分するモノは多くある。特に部屋にかけている額は遺影を除いて処分するつもりでいる。それを大型ごみでなく一般のごみとして処分するには額に付いているガラス、枠、紐、金具など全て取り外してそれぞれ別個のゴミになる。これは結構面倒。

 日本画を習って以降、絵の額もたまってゆく。新たな額は買わないように再利用している。が、額が増えるからといって絵を習うのを辞めたくない。というか、自分の楽しみとなるモノは生きている限りそばに置いておこう!あれもこれも無にすれば家は片付くかもしれない。が、そうなれば無味乾燥な人生になって何の愉しみもなくなる。ナニゴトも適当に、適当に!それにしても暑い!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月9日金曜日

地震警報(緊急地震速報)

 こう暑くてはお盆のお墓参りを涼しくなってからにしようと思った。その矢先、訪問セールスがチャイムを鳴らす。何とお墓の掃除云々、と言っている。もちろん断った。お墓参りの代行まである世の中だからお墓の掃除があるのもうなずける。その家に関係ない人がお墓に参ったり掃除したりして果たして何の価値がある!?

 昨日は新聞購読の訪問セールスがチャイムを鳴らした。応対しないのが一番良いのだがチャイムに応じる。この暑い中、各戸を訪問して何件の成約があるのだろう。これも仕事と思えば致し方ないのかもしれないが、それにしても……。

 そうこうしているとスマホにけたたましく地震の警報が鳴り響く。携帯をかえて2年余りになる。が、これまで地震警報が鳴ったことがなかった。というか睡眠時は電源を切っているので知らないだけかもしれない。ただ大雨警報や洪水警報は何度か警報が鳴ったことがある。地震警報は警報が鳴っても何が鳴っている?とぽかんとしていた。そのうち、なんか揺れる気がしてくる。すぐにテレビをつけると震源震度6弱と放送している。大ごとになった、と思ってしばしテレビに見入る。

 それにしてもますます怖い世の中になっている。用心せよ、と言われても何をどうすればいい!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月8日木曜日

『司馬遼太郎の街道 Ⅲ愛した辺境』

 今朝は生協で買い物を済ませて隣接する図書館へ開館時刻の9時過ぎに行く。目的は予約確保の本を受け取るためである。ついでに女性誌2冊も読む。いくら9時過ぎに家を出ても暑さは半端でない。こう暑くてはお盆のお墓参りも考えてしまう。先日、奈良で熱中症になったので「暑さ」に敏感になっている。お墓参りの前にお寺で塔婆を受け取る。塔婆は受け取ってもお墓参りはもう少し涼しくなってからにしよう。

 以下は『司馬遼太郎の街Ⅲ 愛した辺境』(週刊朝日編集部 朝日新聞出版、2020年第1刷)から気になる箇所を記した。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★司馬さんの旅から四十三年後の蒲生に行った。町の入口には、「日本一の大クス」と看板がある。町の中心部にある「蒲生観光交流センター」で小山田町長の孫、小山田邦弘さん(四八)に会った。「この町で見ていただきたいのは、なんといっても国の特別天然記念物の『日本一の大クスです』。だけど司馬さんは全くスルーされ、大クスのことはひとことも触れられてないんですよ。それが不思議です」蒲生八幡神社境内にそびえ立つ蒲生の大クスは樹齢約千五百年。大化の改新よりも古い。八八(昭和六十三)年の環境庁(当時)の調査で日本一に認定された。……四十三年前の司馬さんは、蒲生八幡神社の丘に続く台上に登っている。……小山田邦弘さんは司馬さんがどうして蒲生を取り上げてくれたのか不思議に思い、十四代沈壽官さんに聞きに行ったことがある。そしたら「『あなたのおじいちゃんが観光客を呼びたいといわなかったら、蒲生に行ってなかったかもしれないよ』とおっしゃいました。十四代はじいさんが高校で教師をしていたときの教え子です。さりげなく『蒲生の石垣は青か』と、蒲生の魅力を伝えてくれたようです」最近の蒲生は道が整備されたこともあり、観光バスがよく来るようになった。(「薩摩隼人の疾走『肥後のみち』の世界」(256p-258p)

2024年8月7日水曜日

旅の思い出 ペルー

 今朝は変な夢で目が覚める。どこかに行って何かの課題を出される。しかし、何人かいたうちの1人だけその課題ができない。後で考えようとするうちに目が覚めた。目覚めがよくないので今朝、スーパーに行くのはやめた。

 今日の旅の思い出はペルー。旅先から自分宛てに送ったAIR MAILに「バジェスタス島のペンギン、アザラシ、ペリカン、烏、動物たち。ナスカの地上絵すべてすばらしい。1996.8.16 リマのホテル」と書いている。

 成田発のペルーの旅は1人で参加した。当時の海外旅行は見知らぬ人との相部屋が可能だった。東京から1人で参加していた若い女性と相部屋になった。ところが高地にあるクスコに着いたとき、高山病になる。その時、相部屋の人におかゆなど運んでもらい、迷惑をかけた.その時に初めて高山病にかかったわけではないが、高地に弱いのか他でも何度か高山病になっている。若い女性はこの旅で知り合ったツアー仲間と帰国後に結婚して今は1児の母になっている。また、このご夫妻とは今でも年賀状のやり取りがある。クスコ以外にチチカカ湖、ウロス島、マチュピチュなどにも行った。ウロス島は浮島で急に雹などが降り、寒かったことをおぼえている。この島で葦で造った舟にも乗った。ナスカ地上絵を見るためにセスナ機にも乗った。乗るか乗らないか、かなり逡巡した挙句、勇気を出して乗った。怖かった。セスナ機から降りたときは気分が悪くなる。

 高山病と言えば何度かかかっているが、チベットの旅のツェダンとペルーの旅のクスコは観光せずにホテルで休んでいた。そのため、この後の観光は皆と合流して旅をした。この2か所は特に厳しい旅だった。

 ペルーまでの距離は遠い。途中ロスアンジェルスで2泊したように思う。当然帰りもロス経由になる。ペルーの旅は厳しい。そして楽しい!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

AIR MAIL ペルー(絵はがき)

2024年8月6日火曜日

今を大切にしたい!

 今朝も9時過ぎに自転車に乗って買い物に行く。家に帰るとひと汗かいて大仕事をしたような気になる。暑さが続く間は早めに買い物に行ってあとはゆっくりしよう。

 海外旅行をしていた時のドルとユーロが手元にある。ドルは700ドルくらいある。先日まで1ドル≒150円以上していた。ところがこの頃は大分下がり気味。といっても手もとのドルは1ドルが100円くらいのころに違いない。市内に出たら広島駅の外貨両替機で円に替えようと思っている。が、こう暑くては何かほかの用事がないと市内に出る気がしない。

 先日は短大時代の同窓会の案内が届いた。昨日は高校時代の同窓会の案内が届く。同窓会へはこれまで一度も出席していない。当然、今回も欠席で返信した。10数年前に修了した大学からは同窓会という名目ではなくホームカミングデーの案内で届く。この案内には大学の近況を知らせるパンフなども入っている。自分がいなくなっても届くと思うので、案内状が届くのをネットで停止した。

 同窓会関係とは異なる研究会などは今でも活動を続けている。こういった会への参加は好きなので毎回出席している。というか、司馬遼太郎記念館友の会のように自分の好みで積極的に参加したい会もある。その底辺には過ぎ去ったことよりも今を大切にしたい気持ちがそうさせる!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月5日月曜日

「難得糊塗」の額

 一昨日、市に大型ゴミの収集をお願いした。収集ゴミは中国の西安博物館の碑林の拓本を日本で表装した下の画像の額である。1987年の年末からお正月にかけて出かけた中国の成都と西安の旅。そこで西安博物館の職員と知り合いになった。帰国後、職員からこの碑文の拓本が郵送されてきた。すぐに市内の額縁店で表装してもらった。今から37年前のことだが当時の表装代金は6万円以上したように思う。

いまの漢字では「難得糊塗」

 大型ゴミの収集日は今月の20日。ところが昨夜から今朝にかけてこれをゴミとして出すのにためらいが生じる。表装額は長さが1.4mで幅が40㎝近くある。今朝、急にゴミとして出す前に記念に写真に撮ろうと思いつく。写真に撮っていてゴミにして出さなくても家においておけば、とも思い直す。
すでにゴミの収集はお願いしているので、同じ額縁でも鏡の額を代わりのゴミとして出すことにしよう。

 毎日暑い日が続く。外に出ても暑いだけなので家の片づけをする。昨日は気になっていた押入れの上部にある盆提灯を2セット処分。これからお盆がやってくる。処分する前に仏壇に飾る盆提灯だが、飾りもせずに処分となった。この盆提灯は父が亡くなって買ったもの。父が亡くなって34年になる。その年のお盆に盆提灯を初めて飾った。が、その後のことは覚えていない。というのも務めていた頃はお盆と言えば海外に出かけていたから。

 盆提灯は対になっており、それが2セットあった。1セットは覚えがあるが、もう1セットは新品のままだ。それでも今朝の燃えるゴミとして出すために段ボールに入ったままでは出せないので箱から出してばらしてゴミとした。

 さて額の意である。「難得糊塗」は「馬鹿になりがたし」から「馬鹿になれ」の意で、これは清時代の画家である鄭板橋の書だとか。下に小さい字で書いてあるのは「聡明になるのは難しい。糊塗になるのも難しい。聡明から転じて糊塗になるのはさらに難しい」と書き添えてある。バカの人生は辛いし、また人に嘲笑されたり、無視されたりすることは耐えがたい。しかし、聡明な人やバカな人よりは、バカなふりをしている本当に聡明な人こそ、一番難しい。ということから「難得糊塗」はバカは得がたしということになる。いつも自然体のままで行動をとるのがいいようだ。

 「馬鹿になれ」と言って思い出す。母は私が会社勤めで行き詰まるといつも「馬鹿になって働きんさい」と言って慰めてくれた。お陰で50代半ばまで会社勤めをした。今、その時の年金で暮らしている。すぐに会社を辞めていたならば今の年金生活はなかったかもしれない。そう思うと、余計、この額が捨てがたくなる。壁に飾らなくても床に立てかけておけばいい!?どういっても人生で最初にハマったのが中国語、そして中国の旅。一つくらい中国の記念品があってもいい。

 そういえば当時の中国は日本人と知り合えば海外に行ける保証人ができるとの思いがあったようだ(当時の中国は今と違って保証人がいないと海外へ出られなかった。そのため、知らない人から伝手を頼ってなのか保証人の依頼が舞い込んできたことがある。自分のような名誉も地位もないものは到底無理なはずなのに)。その点ではあまりいい印象は持っていない。が、この拓本を送ってくれた人はその後、アメリカへ行くと言っていた。それから後のことは知らない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月4日日曜日

熱中症に気をつけて!

 朝方、3時半ごろ電話が鳴る。固定電話の着信音を先日、韃靼人の踊りにかえた。熟睡中に鳴る電話の音で目を覚ます。最初は着信音に馴れておらず、何の音?と思った。そしてスマホの緊急地震速報かとも思った。しかしスマホは電源を切って寝ている。目が覚めて電話の音だと気づく。先ほど、着信番号をスマホで調べると市内のコンビニからの電話で間違い電話のようだ。それにしても寝ている最中の間違い電話は困ったものだ。寝ようとすると次は雷だ。そして大雨になる。しばらく寝られなかった。

 一雨降ったので涼しくなると思ったがそれは大間違い。今朝の暑さは異常だ。9時過ぎ、スーパーへ自転車で行く。開店間際のスーパーはまだ商品もそろっていない。土、日曜日は大体お刺身を買うがこう暑くては、と思い直して今回は買わずに他の品を購入。

 この暑さはいつまで続く!?お盆過ぎても暑さは続くようだ。

 昨日は日本画教室の日。いくら暑くても教室に行くと元気が出る。たまには人と会って話さないといけない。それはどの人も同じ!?奈良の旅で熱中症になった話をした。怪我しないように、と出かける前に言われることはあるが熱中症に気をつけて、と言われたことはない。これからは人と話す時、これもあり、かとも思ったり。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年8月3日土曜日

『司馬遼太郎 街道をゆく夜話』

 これから2週間先の天気を見ると相変わらず35度前後の日が続く。奈良で熱中症を体験したためか暑い日はこれまで以上に気をつけるようになった。どちらかと言えば寒いよりも暑い方が好きだった。が、これからはそうとも言えないかもしれない。奈良の過酷な暑さを経験すると寒い方がいいと思ったりもする。

 以下は『司馬遼太郎 街道をゆく夜話』(司馬遼太郎 朝日新聞出版、2016年第7刷)から気になる箇所を記した。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★日本は源平交代思想があり、日本の武力政権を樹立した最初は平家であったがそれが源氏の鎌倉政権にとって代わられ、その鎌倉政権は平氏の北条家にとられ、北条家は源氏の足利氏にとられ室町幕府になった。信長のころは室町幕府はあってなきような存在であったが、とにかくそれを倒すものは平氏でなければならず、そのために信長は平氏に改姓した。そのとき同盟者の家康も藤原氏を源氏にあらため、その旨朝廷に請願した。源氏に改めるについては証拠がなければならず、その証拠を作るについては遠祖徳阿弥の寝物語が生きてきたのである。「わが遠祖は、上州利根川ぞいの徳川村に住んでいた新田源氏の族である」ということになり、姓も徳川と改め、これ以後、家康は正式に署名するときは「源朝臣家康」と書くようになる。(「上州徳川郷」60p)

★おなじ長州人の槙村正直を京都の司政者(最初は京都府出仕、のち大参事、権知事、知事)とし、槙村の企画の実現をできるだけ後援した。槙村は明治元年以来、十年以上京都府の施政に没頭したが、かれがやった仕事は明治期のどの地方長官よりも大きな業績をあげている。全国にさきがけて最初に小学校がつくられたのは京都だったし、女学校の濫觴(らんしょう)である女紅場(じょこうば)、日本最初の美術学校である画学校、さらには博物館、外国語学校、図書館、駆黴院(くばいいん)、窮民授産所、測候所、化芥所(けがいしょ)、産物引立会社、舎蜜局、博覧会、織殿、染殿が設けられるなど、施設面での文明開化は、東京に匹敵するほどに華やかだったといえるかもしれない。もっともこれらは木戸が死に、槙村が去ると、あとはその発展力が停頓してしまうのだが。(「『京都国』としての京都」)165p)

★枚岡(ひらおか)の夕景。この里は、生駒連峰のふもとにある。陽が、いま、ちぬの海(大阪湾)に落ちようとしているところだ。徳川家康は、このあたりから大坂をのぞんで、この山河に食欲をおこした。かれをして豊臣家を亡ぼそうと決意させたのはこの壮大でゆたかな風景をみたからだと伝えられる。石切からみた大阪の灯。生駒山の中腹を近鉄の奈良線が走っている。石切は、その小駅である。駅から西をのぞめば、河内、摂津の平野がひとめにおさめることができ、陽がおちはじめる時刻には、はるかな大阪の灯が宝石のようにかがやく。……夜の大阪城。夜景のいい城として推そう。くっきりと夜空に浮かぶこの幻想的な風景は、太閤秀吉でさえみることができなかったものだ。(「大阪八景」172p-173p)

★日本仏教は、隋・唐の仏教を御し元にしているが、唐の長安の盛時も、行楽の名所と言えば、寺であった。私は大和の長谷寺や当麻寺がなぜ牡丹の名所なのかよくわからなかった。奈良県のひとびとはいまでも花見は桜ではなく、牡丹であり、牡丹の花のそばにむしろを敷いて酒を飲み。唱をうたったりするのである。長じてこの風が唐の長安のものであったことに気づいた。牡丹の季節になると長安人士は気もそぞろになり、「一城ノ人皆クルウガゴトシ」といわれたが、その当時、長安城内の大寺にはたいてい牡丹の庭園があり、ひとびとはそこへ押しかけたという。その型を、奈良朝のころ、遣唐使船でもどってきたひとびとが、大和に移植したにちがいない。住吉にはそういう花の名所がない。(「江戸期の名所文化―大阪の住吉を中心に」)177p)

★人間は、古代から「暮らし」のなかにいる。森青蛙が樹上に白い泡状の卵塊をつくるように、シベリアのエヴェンキというアルタイ語族の一派が、河畔で白樺の木の家をつくり、鮭をとり、鮭を食べ、鮭の皮の靴をはくように、私どもはあたえられた自然条件のなかで暮らしの文化をつくり、踏襲し、ときに歴史的条件によって変化させてきた。人間という痛ましくもあり、しばしば滑稽で、まれに荘厳もある自分自身を見つけるには、書斎での思案だけではどうにもならない。地域によって時代によってさまざまな変容を遂げている自分自身に出遭うには、そこにかつて居た――あるいは現在もいる――山川草木のなかに分け入って、ともかくも立って見ねばならない。……樹上の森青蛙は白い泡状の卵塊から下の水中に落ちて成体になるのだが、ひとびとの空想も、家居(かきょ)しているときは泡状の巣の中にあり、旅に出るということは、空想が音を立てて水の中に落ちることにちがいない。私にとって、『街道をゆく』とは、そういう心の動きを書いているということが、手前のことながら、近ごろになってわかってきた。(「私にとっての旅『ガイド 街道をゆく 近畿編』367p-368p)

2024年8月2日金曜日

旅の思い出 イルクーツク

 今朝は「その他のプラ」のゴミ出し日。出す間際に父と母が履いていた靴を思い切って処分する。もう決して履くことはない両親の靴だが、どうしても捨てきれずにいた。申し訳なく思いながら処分する。たったこれだけの朝仕事で汗だくになる。というか靴箱の靴をほとんど処分したのでその後に残った靴の箱の処分がある。これは資源ゴミになる。そのため箱を開いて段ボールのようにしてまとめる。このゴミは来週になるが。
 
 今朝も9時過ぎに自転車に乗って生協へ行く。買い物を済ませて帰宅すると2度目の汗だくだ。その都度顔を洗うのも大変なのでタオルを濡らして拭いている。これだけでも気持ちがいい。これは先週出かけた奈良の旅でタオルハンカチを濡らして顔をぬぐったことに始まる。
 
 今日の思い出の旅は1988年8月に出かけた旧ソ連領(今のロシア)のモスクワ、レニングラード(今のサンクトペテルブルグ)とシベリアの旅。旧ソ連領は今もそうだが定期便は新潟から出ている。広島からだと新潟は遠い。ところが名古屋空港からのチャーター便が旧ソ連領の旅で飛んだ。名古屋空港からシベリアに位置するハバロフスクまで飛び、バイカル湖が近くにあるイルクーツクを観光後、飛行機はモスクワ、レニングラードを目指す。
 
 AIR MAILはイルクーツクから出している。「イルクーツク 気温15度 イルクーツク・インツーリストホテル 8・15」とだけしか書いていない。真夏のイルクーツクの気温が15度に驚いたのだろう。モスクワもレニングラードも気温はそれほど高くなかった。が、今はどうなんだろう。

 当時のソ連はモノ不足の時代。お土産店を覗くも売ってある品が少ない。ある人は食パン3斤(切ってない食パン)を買ってお土産にした。個人的にはマトリョーショカや艶やかな花柄の大判スカーフ(プラトーク)を買った。このスカーフは母がお気に入りで亡くなるまで冬の旅には持参していた。この後、ソ連領のシルクロードにも出かけている。これはまた後日に。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

AIR MAIL イルクーツク(絵はがき)

2024年8月1日木曜日

旅の思い出 スイス

  燃えるゴミを出しに行くと道行く人から「おはようございます」とあいさつされる。「今から仕事?」と話すとそうだという。「年金生活者で悪いね」というと「私も年金をもらっています」という。どうみても年金受給者には見えない。「働いてくれと言われるうちは働く」ともいう。それにしても若く見えた。

 今朝は9時半から自転車に乗って買い物に行く。徒歩でなく自転車なので牛乳や味噌など重くなるものを優先して購入。エアコンをつけたままにして買い物に行ったが、帰宅後の噴き出る汗はまだ止まらない。これまでは朝食を終えるとブログに向かっていた。が、この暑さでは買い物が優先。

 こう暑くては泳ぎにも行けない。家でおとなしくしているが合間に家を片付けてモノを処分する。旅の写真も処分するがすべてを捨てることもできず時に袋から出しては眺めつつ、処分したりする。

 昨日も旅の写真を見ていると旅先から自分宛てに送った絵はがきが10数枚出て来た。これを少しずつブログにアップしよう。いい記念となりそうだ。

 「あこがれのスイスに来た。ユングフロウヨッホのそばに、夢を求めて……。アルプスの少女(?) 2000.8.14)

AIR MAIL 絵はがき
 今から24年前の旅だ。スイスのほかにドイツのライン下りやフランスの凱旋門に登ったりルーブル美術館にも行った。このツアーは1人で参加している。旅はやっぱりいいし、いつまでも思い出として残る!なお、旅のメモによると出かけたのは2000年8月11日から20日までの10日間。JTBの旅だ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!