相変わらず狂うような暑さが続いている。今日は終戦記念日。世界を見渡せば先の終戦とは異なる現在の戦争が起きている。しかし、これに対して誰もが手をこまねくことしかできない!?
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下は『司馬遼太郎が考えたこと(6)』(司馬遼太郎 新潮社、平成17年)から気になる箇所をしるしたもの。
★明治十年代から日露戦争にいたる明治オプティミズムはたしかに特異な歴史をつくりかえたが、しかしどの歴史時代の精神も三十年以上はつづきがたいように、やがて終息期をむかえざるをえない。どうやらその終末期は日露戦争の勝利とともにやってきたようであり、蘆花の憂鬱が真之を襲うのもこの時期である。真之の場合は劇的な環境におかれた。日本海海戦において旗艦「三笠」の艦船上にいたかれが、かれの立案した戦術によって最初の三十分の猛射のあいだに大局を制したとき、敵味方の惨況をみて深刻な衝撃をうけ、この後、かれの精神は海軍部内のひとびとのいたわりのなかで守られた。かれは海軍をやめて出家しようとし、そのことを部内のひとびとからとめられると、自分の長男の大(ひろし)に僧になることをたのみ、げんにその長男は無宗派の僧になることによって父親のその希望に応えた。この天才は、敵の旗艦スワロフやオスラービアなどが猛炎をあげて沈もうとしているとき、そのことに勝ちを感ずるよりも明治をささえてつづいてきたなにごとかがこの瞬間に消え去ってゆく光景をその目で見たのかもしれない。(あとがき『坂の上の雲 五』101p-102p)
★日本の場合は明治維新によって国民国家の祖形が成立した。その後三十余年後に行われた日露戦争は、日本史の過去やその後のいかなる時代にも見られないところの国民戦争として遂行された。勝利の原因の最大の要因はそのあたりにあるにちがいなが、しかしその戦勝は必ずしも国家の質的部分に良質の結果をもたらさず、たとえば軍部は公的であるべきその戦史を何の罪悪感もなく私有するという態度を平然ととった。もしこのぼう大な国費を投じて編纂された官修戦史が、国民とその子孫たちへの冷厳な報告書として編まれていたならば、昭和前期の日本の滑稽すぎるほどの神秘的国家観や、あるいはそこから発想されて瀆武(とくぶ)の行為をくりかえし、結局は日本とアジアに十五年戦争の不幸をもたらしたというようなその後の歴史はいますこし違ったものになっていたにちがいない。(あとがき『坂の上の雲 六』186p)
★徳川将軍家というのは、始祖の家康を神とした。このふとった老人が死ぬと東照大権現という神号をつけたのは、京の天皇家に張りあうためであった。天皇家の始祖は伊勢神宮の天照大神である東照は天照と対をなすもので、その東照大権現である神の子孫が将軍職を継ぐというところも天皇家に似せていた。さらに天皇家よりもえらくみせるために、毎年、天皇家の眷族(けんぞく)である公家を例幣使として仕立て、道中をさせ、はるばる日光東照宮にまでゆかせて参拝させたのである。徳川家の攻略で、京の神が関東の神をおがみにゆくということで将軍家のえらさを庶民に知らせるためであった。この屈辱に怒った天皇はいた。しかしその家来の公家たちが憤死したという事実はまったくない。江戸時代の公家というものがいかにくだらない存在であったかがこのことでもわかる。(「人間が神になる話」213p)
★明治二十九年五月、かれはロシアのニコライ二世皇帝の戴冠式に参列すべく、特命全権大使として露都ペテルブルグにゆき、その戴冠式の荘厳さにおどろき、(日本もこうでなければならぬ)とおもい、帰国後、宮内省に容喙し、いままでの儀典を再検討させ、重厚さと神秘性をもりあげたあたらしい方式に変えさせた。――ロシア皇帝のごとく荘厳なものを。と山県がおもったことは、世界史的にいえばひどく戯画的な感じがする。この山県が飾り物とはいえ参謀総長の座について戦った日露戦争の結果、ロシア皇帝の国内における慰望がはなはだしく下落し、その敗戦がやがて革命をまねきよせる近因の一つになってしまったのである。(「権力の神聖装飾」261p-262p)
★坂本竜馬の不幸は大政奉還を着想してそれを成功させた歴史的プランナーとして殺されたのではなく、新時代に不要にあるはずの浪士群を始末しようとし、それが京都で大暴動をひきおこすというふうに誤伝され、その滑稽な風説によって殺されたというところにある。(「見廻組のこと」412p)
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