2026年2月26日木曜日

『箱根の坂』(上)

白池地獄内にたたずむ一遍上人像

  『箱根の坂』(上)(司馬遼太郎 講談社、昭和59年第2刷)を読んだ。一遍上人についての記述がある。別府地獄めぐりの白池地獄内に一遍上人像が建立されている。一遍は荒ぶる温泉の地を鎮め、温泉郷の基礎を築いたともいわれている。以下は気になる箇所をメモしたもの。

 今日も春のようなお天気だ。午後はプールに出かけよう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★伊予の豪傑、河野氏の子として生まれた一遍は、法然の死後の人である。一遍が完成した浄土信仰は、哲学的内容において法然・親鸞に匹敵し、その狂えるような行動力においてははるかにまさっている。すべての私量(はからい)を捨てよ、捨てて、それを捨てるおのれの意識さえ捨てよ、と言いつづけたために、捨聖ととよばれた。寺をもたず、財をたくわえず、組織をつくらず、生涯諸国を遊行し、奥州から九州にいたるまで歩きつづけ、二五〇万余のひとびとに結縁した。結縁されたひとびとは、俗体のまま頭をまるめ、阿弥陀仏を称する。上に一字、好みの文字を置く。願阿弥陀仏・願阿弥といったふうにである。(52p)

★「若厄介、人の言葉を逆手にとるか」 逆手というのは、巫女がやる柏手の仕方の一種である。手を柏(う)つのに掌を裏返して拍(う)つ。人を呪詛するときや凶事(まがごと)のときにそのよういする。(196p)

★伊勢新九郎長氏は、のちに北条早雲として知られる人物になる。早雲とは頭を剃ってからの名で、正しくは早雲庵宗瑞(そうずい)と称した。「北条」という姓も、晩年に称したらしい。らしいというのは、称した形跡が、資料の面ではうかがいにくいことにある。ともあれ、筆者は、早雲以前の伊勢新九郎時代に関心がつよく、さらには新九郎の思想の形式に大きく影響した――というよりも早雲を生みあげたというべき――室町期の世情と応仁・文明ノ乱につよく心をひかれた。伊勢新九郎が、将軍の養子である足利義視の申次衆になったとき、――この人が将軍になれば、世が変わるのではないか。と期待した。が、ほどなく義視の人物に失望した。が、それ以上に、義視一個が理想をつよく持っていようとも、歴史はそれだ(266p)けでは動かないとみた。(266p)

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