2024年12月29日日曜日

『司馬遼太郎が考えたこと』(13)

 『司馬遼太郎が考えたこと』のシリーズは15巻ある。先日、その15巻を読み終えた。これからの司馬作品は再度、小説にもどって今は『風の武士』(上)を読んでいる。しばらく小説とご無沙汰していた。頭をエッセイから小説に切り替えて読んで行こう。そして家の改装中、笛を吹くのを中断していた。久しぶりに吹くと立ち眩みもせずに吹けた。ただ、以前のように息が続かない。これも徐々にならして元のように吹けるように練習しよう。そして水泳が再開になるとほぼ元の生活になる。しかし、プールが工事中のため、工事完了後の3月以降に水泳は再開となりそうだ。さらにもう一つ再開と言えば旅もある。

 以下は『司馬遼太郎が考えたこと』(13)(司馬遼太郎 新潮社、平成十七年)から気になる箇所を抜粋した。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★私は、その宗門の徒でもないのにザヴィエルが好きなのは、むろん彼の人柄が好ましく思えるためであるが、彼への感情の部分は、ザヴィエルがバスク人であるというところからきているらしい。ともかくも、いつかバスクへ行きたいと思った。(バスクへの盡きぬ回想 《写真集『街道をゆく 何番のみち』》)(18p)

★私どもの先祖は、ピレネー山脈とそのむこうのイベリア半島(スペイン・ポルトガル)からきたひとびとを南蛮とよび、その技術文化や宗教を尊んで、よきものは積極的に容れ、日本文化に華やぎを加えた。(「バスクへの盡きぬ回想」 《写真集『街道をゆく 何番のみち』》)(34p-35p)

★昭和二十三年ごろ、西本願寺で遊んでいると、鹿苑宇宙という近江の番場に自坊をもつ録事さんが、「明治のころ本願寺に、”反省会雑誌”という雑誌があってな、それが”中央公論”なった」と、話してくれたときは、蛤が雀になったほどの印象で、面くらう思いがした。当時、私は本願寺教団史がおもしろくて、ちょうど昆虫好きの少年がクワガタに目がないように、このことに関心をもった。(「反省会のことなど」)(37p)

★明治二十五年、誌名は「反省雑誌」にかわり、「反省」「禁酒」という素朴なモダニズムから、場が社会・風教への批判が広がった。さらに本部が東京に移されて、明治三十二年「中央公論」になり、やがて本願寺と離れ、独立する。(「反省会のことなど」)(38p)

★私は、以前、檮原水田の起源をしらべ、その千枚田の写真をみたとき、万里の長城などに驚いてはいられない、とおもった。この山間のひとびとは、カルスト台地の石を焼き、割り、くだき、それでもって土壌面をひろげ、くだいた石をもっていしがきをきずき、田を水平にしてきたのである。水は、はるかな谷底からの人の力で汲みあげてきた。一時期の新中国で”農業は大賽に学べ”などといわれて、政治スローガンになっていたが、私はその時期、中国へ行って「日本の檮原の方がすごいですぜ」といったことがある。むろん日本じゅうの古い水田地帯の構造水田は、大なり小なり檮原的であった。私は、その後、檮原へゆき、たんねんに千枚田を見てまわった。(土と石と木の詩「高橋昇写真集『人海 日本の普請』)(236p)

★ヨーロッパでは、例のチュートンの森というものがドイツ人を育てたように、また、チュートンの森は保護して、大事にしなければだめだという思想も、ともにドイツ人はそれを精神の支えとして一所懸命やってきたのだと思います。(「樹木と人」)(304p)

★いまは、日本語が紊乱しまして、上人と言うと、偉い人のように聞こえますが、上人と言うのは資格を持たない僧への敬称であって、たとえば空海上人とは言いませんし、最澄上人とも言いません。最澄(七六七ー八二二)も空海も有資格者だからで、無資格者に対してはたとえば親鸞聖人というふうに敬称します。ただ親鸞の場合は聖人と書きます。聖というのは乞食坊主のことです。……親鸞の師匠の法然の場合は、ちょっと微妙です。法然は正規の戒を受けて、正規の叡山の僧侶であったにもかかわらず、それを捨て、黒谷の里に下りてきて、大衆に説法したということで、当時、評判だったのです。だから、当時の人は「知恵第一の法然坊」とよく言いました。それは要するに高文を通った人が、その辺で乞食しているという意味です。その驚きと尊敬を込めて、法然に対しては上人と言います。(「浄土――日本的思想の鍵」)(346p―347p)

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