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| わが家の紫陽花 |
2023年5月31日水曜日
紫陽花
2023年5月30日火曜日
「頑張れ、自分!」
日・月の2日間、1泊2日のバス旅行に参加した。行先は讃岐の奥座敷塩江(しおのえ)温泉郷と大窪寺、そして栗林公園だった。いずれも初めての地なので行く気になる。が、温泉そのものはそれほど好きではない。
宿は塩江温泉郷にある新樺川ホテル。ホテルとはいっても昭和感あふれる宿である。和室はいいのだが部屋に一脚も椅子がないのに閉口する。家は和室でも生活スタイルは椅子生活なので椅子に座るのがあたりまえになっている。ところが椅子が部屋にないとどこに座る!?座椅子に座布団を3枚敷いて座るが椅子には勝てない。宿の部屋にいる間中、椅子をどれほど恨めしく思ったことか。今や椅子は生活に欠かせなくなっている。
その点、ビジネスホテルもシティホテルも椅子がある。これからの旅を考えるとき和室は避けるようにしよう。旅の詳細は後日、アップの予定。
家に着くと友だちから電話が掛かる。これから先、友だちと旅割を利用して2度ほど出かける。そのうちの1件についての電話だ。旅を友だちに任せているのでこちらに最終日程表が来ない。友だちはそれをパソコンのメールに送ってくれた。これをスマホに転送しようとするが何度試みても添付の表示ができない。パソコンのマウスを右クリックすると「このページをQRコードで作成」云々の画面が出る。パソコン画面を右クリックしてQRコードを表示させ、スマホでそれを読み取ると読み取れた!この「QRコードの作成」は初めてのことだった。それが「表示できた!」と思うと嬉しくなる。
何でもやってみるに限る。できた時の喜びは大きい。QRコードで読み取った画面をNOTEに保存する。このNOTEの使い方もわかってきた。機種変更後は電話の受け方と切り方に手間取った。スマホの初歩の初歩ができなかったが買い替えて半年以上も過ぎると大分わかりだす。それでもまだまだ初歩。少しずつ、そう一歩ずつ歩を進める。ナニゴトもそうかもしれない。頑張れ!
某歌手のブログを見ると「頑張れ!」でなく「頑張れ、自分!」と「自分」をつけている。まさに自分に向かって問いかけている。この言葉はいい。まねして「頑張れ、自分!」。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2023年5月28日日曜日
『豊臣家の人々』
『豊臣家の人々』(司馬遼太郎 角川書店、平成二十五年改版八版)を読んだ。テレビの時代劇はまったく見ない。というか、ドラマそのものを見ていない。そのためか千姫、淀殿、茶々、寧々、北政所など聞いたことがあってもそれほどわかっていなかった。ところが『豊臣家の人々』を読み終えてその人たちのことがよくわかった。名前は違っても置かれた状況で呼び名が変わる。これもよくわかった。初歩的な事なのに何もわかっていない、こともよくわかった。それにしても「豊臣秀吉という男の生きざまはどうよ」と思ってしまう。自分がしたい放題のことをして人生を終えている。これもまあ、一生と思えば幸せな一生だったのかもしれない。と言ってもこの人の生き方を肯定しているのではない。
いろいろな生き方があると思って本を読む。信長、秀吉、家康のうち人情家は秀吉!?信長は非業、家康は周りから見てあまり魅力的に思えない。何度か読み返せばもっと理解も深まってそれぞれの人物の見方も変わるかもしれないが。
以下はこの本から気になる箇所を記した。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★この日の十二月、豊臣家から朝廷へ奏請があり、孫七郎は内大臣に任ぜられた。……関白になった。秀吉が、その職を譲ったのである。譲って秀吉は宮廷の現職から去り、大坂城に住み、以後太閤と称せられた。関白秀次公である孫七郎はあらためて京の聚楽第の建物、ちょうどいっさいをあたえられ、京に住み、殿下、と尊称された。(31p)
★瓜見ノ宮という若者である。ただしくは、八条宮智仁親王という。皇弟である。このうまれながらの貴族は、当然ながら豊臣家の養子のなかでは血統の点ではずばぬけているだけでなく、学芸にすぐれ、政治感覚についてさえもすぐれた資質をもっている。ちなみに、京の南郊の桂の里は、一望の瓜畑である。(347p)
★宮は、秀吉の猶子(ゆうし)になった。猶子とは、猶(なお)子ノ猶(ごと)シから言葉がでている。養子とのちがいはほとんどなく、おなじ意味につかわれることが多いが、ときに区別されることもある。養子のばあいはその養家に住み、養家の姓を名乗るのが原則のようであるが、猶子はかならずしもそうではない。豊臣家の猶子である宮は相変わらず勸修寺家に住み、天皇の一族としてくらしていた。(368p)
★宮は、桂川のほとりに瓜見にゆく。その場所に住まいをつくることを思った。ここに別業を作りそこに住み、それによって和学のうつくしさのなかに沈潜し去ろうとした。この宮は、後世(のち)にいう桂離宮をつくった。あの離宮のすべてをつくったのではなく、かれは祖形のみをつくり、あとは晩い結婚でうまれた嫡子の智忠(としただ)親王によって完成された。……宮は、この別邸の設計において、源氏物語、伊勢物語、古今和歌集それに宮の好きな白氏文集などから発想し、それらの詩情を形象化しようとした。瓜畑に夏の月がのぼる夜など、この別業に秀吉を生かしめて招きたいと何度かおもったことであろう。……後年、東照宮における徳川家の美意識と、京の南郊のこの桂御所におけるこの宮のそれとが、意識の対極のように取沙汰されるようになった。(390-391p)
★家康はこの拝謁を最後に、この年のこの月に征夷大将軍になり、名実ともに政権の座についた。さらにこの年の七月、家康は七歳の孫娘御千を大坂にさしくだされ、秀頼の妻にした。千姫との結婚については、家康はかならずしもそれを熱望したわけではない。これは故秀吉が臨終(いまわ)に言いのこした遺言であり、この遺言をまもらねばかれの傘下にいる加藤清正、福島正則など故秀吉恩顧の大名たちがあるいは動揺するかもしれず、家康にとっては出来たばかりの徳川政権の静謐とかれら外様大名たちの鎮静のためにこの少年と童女の結婚をすすめたにすぎなかった。(469p)
★「心得て候」と、明快な歯切れで行った。このさわやかな口跡を聞いたとき家康はこの時ほど秀頼をねたましくおもったことはないであろう。老年はすでにそれそのものが敗衰であり、若さというのは老人からみればそれ自体が傲りであった。家康は、この若者を自分の死まで生かしておくことはできぬとおもった。(496p)
★秀頼には辞世もない。辞世だけでなく、かれの人柄や心懐を推しはかるべきなにものもその二十三年の生涯のうちに残さなかった。秀頼は影のように生き、死んだ。その死も、おそらく他の者がその手を執り、力を加え、是非もなしに無理やりに死にいたらしめたものに違いない。その光景は無残ではあるが、詞にも歌にもならぬ無残さであろう。
このようにしてこの家はほろんだ。このようにして観じ去ってみれば、豊臣家の栄華は、秀吉という天才が生んだひとひらの幻影のようであったとすら思える。(514p)
2023年5月27日土曜日
『宮本武蔵』
コロナ禍にあって毎日の新規感染者の報道がされなくなり、自ずと家にいるよりも外に出かける機会が増えた。その分、本を読む時間が減っている。文庫本で520頁もある『豊臣家の人々』(司馬遼太郎)を図書館貸出期限の2週間を延長してやっと今日中に読み終えそうだ。豊臣家の一族の繁栄と衰退ぶりがこの本を通してよくわかる。と同時に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の生きざまもわかってくる。
同じ時代を宮本武蔵は生きている。以下は以前読んだ『宮本武蔵』(司馬遼太郎 朝日新聞社、1996年第1刷)から気になる箇所を記そう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★宮本武蔵の生涯と、そしてその後世への名誉を決定したのは、一乗寺(いちじょうじ)の決闘である。この一戦で、かれの名は天下に喧伝された。(39p)
★仏教では忌がないが、神道にはある。穢れ、不浄を忌みきらい、浄(きよら)なることをよろこぶというのは神道の基本姿勢であり、神道そのものといっていい。穢れ・不浄のなかでも神道がもっとも忌むのは人や動物の死とその死骸あるいは血などであった。たとえば肉親の死後喪に服し神社の境内には立ちよらぬというのは神道からきたものであり、仏教の思想ではない。死に穢れた者が浄域に入ることを神は忌むのである。(61-62p)
★武蔵は、「兵法の道念の涯(は)てには宗教がひろがっている」としか思えぬようになっている。これは武蔵にとって生涯の課題になったものであり、かれは兵法を通して生きながらに成仏しようとし、その点では禅の始祖達磨大師以来の禅の系譜のなかでは不思議人というべきであろう。実は奈良の宝蔵院にきた目的のひとつにはその点で啓発されたいというところがあった。が、この点ではむだであった。(63p)
★「わが兵法は」と、武蔵はつねづね言う。「間合の見切り、ということこそもっともかんじんである。極(ごく)の極の極意といっていい」この場合、間合とは敵の太刀さきと自分との距離をいう。その間合を見切ってしまえば敵に負けることはない。……――見切って撃つ。この見切りの修業こそ兵法修業の眼目である、と武蔵はいうのである。その間合は一寸が理想である、と武蔵はいう。……武蔵は、小次郎との勝負において自分の理法を実証した。あのとき武蔵がそのひたいに結んだ鉢巻の結び目は一寸弱の高さがあったであろう。その間合だけをかれは見切った。見切ったうえで小次郎の虎切刀をゆるした。虎切刀は武蔵の結び目を斬って武蔵は斬れず、そのまま大地へ落ちたのである。(195-196p)
★武蔵が少年にほどこしたのは自己催眠の法にすぎないが、多くの勝負の切所をくぐってきてついに兵法は自己を信ずる以外にないということを知ったのであろう。(200p)
★武蔵の兵法は、かれの死後、二刀流、円明流(えんみょうりゅう)、武蔵流などと言われてこの尾張名古屋や豊前小倉、肥後熊本などに残ったが、ほどなく絶えた。武蔵と同時代の、武蔵よりもやや先輩にあたる伊藤一刀斎が、うちたてた一刀流が、その後かずかずの流派にわかれて日本剣道の正統として栄え、数世紀をへたこんにちにまでひきつがれていることをみれば、武蔵の兵法体系には欠陥があったとしか思えず、その欠陥は、武蔵存生当時、かれ自身がその固有の気で埋めていたとしかおもえない。(242p)
2023年5月26日金曜日
筋トレ!?
2023年5月25日木曜日
スーパーで
旅先などで靴が判らなくなる夢を見ることがある。(なぜ靴が)、と思ってネットで調べると「今の立場を失うことを怖れる心理を表している」とか。また靴は「社会的地位」や「財産」「行動力」を表すともある。今や無職の年金生活者にとっては社会的地位や財産がないに等しい。ということは「行動力」だけが残る。確かに自分の中で今や「動く」ことというか「行動力」は半分意識してやっていることかもしれない。それを失う、となれば夢占いも当たっている!?
スーパーに出かけると久しく会っていなかった同級生と出くわす。「仕事をリタイアして21年になる」、と話すと「21年?」と怪訝な顔をされる。同級生はまだ働いているそうだが、フルタイムではなく呼び出しがあれば働くようだ。毎日遊び惚けている者にとっては「働く」ことが信じられない。とはいえ何事も人それぞれ。だれがどう言おうと自分が信じる道を進めばいい。その意味でも働くことが好きな人はそれが生き甲斐かもしれない。
旅の話をするとこれまた驚かれる。人の好みはこれまたそれぞれ違う。とはいえ、同級生も旅がしたいらしく旅のやり方を聞かせてほしいと言われる。人にその方法を話すほど旅をしていない。が、元気なうちに行きたいところへ行こうとの気持ちがある。他にもコロナ禍の最中に10年用のパスポートを更新したと話すとこれまた「10年?」とびっくりされる。更新は2年前のことだがいわれてみればその10年先はいい年になる。更新時はそんなことさえ考えず、まだまだ海外へ、との気持ちがあった。もちろん、いまもそうだ。
生きてる間は楽しみを見つけて元気に暮らす。それに尽きると思っている。楽しみの一つにプールがある。そういえば同級生は以前にプールの場所を教えてあげたらしく、自転車に乗って行ってみたそうだ。自転車で行ってもきつい、と話す。そして泳げないともいう。
運動音痴はそれを聞いて細々と続けてきた甲斐あって泳ぎをクリアできた、と思った。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2023年5月24日水曜日
「運命頌」
先日、BSで司馬遼太郎の「新・街道をゆく」の「北のまほろば」を見た。その中で棟方志功を取り上げている。この人に興味を持ったのか、昨日の地元紙テレビ欄に目が行く。それはNHK富山から放送の「巨匠・棟方志功と富山」である。午後2時過ぎ、テレビの前に陣取って放送を見る。「私こそが“板画” 〜棟方志功の富山時代〜」である。
画面はいきなりベートーベンの第九を口ずさむ棟方志功を映し出す。なぜ第九なのか番組を通してわかりだす。番組HPによると「今年生誕120年を迎えた板画家・棟方志功。世界的に活躍したが、その原点は疎開のため暮らした富山時代にあったとも言われる。巨匠の富山時代の創作秘話に迫る」とある。
日本の実業家大原総一郎は戦後、輸入品に頼っていた繊維産業を日本で製造したい、との思いから富山の古い家を買って工場の宿舎とした。その際、その床の間に飾る作品を棟方志功に依頼する。それが「運命頌」である。これにはニーチェのツアラツーストラからの文を引用して彫ってある。それによると「ツアラツーストラは『超人』を教えるべく、『永遠回帰』と『運命愛』の思想を広めようとしている」とか。ここに「運命」が関係してくる。それで棟方志功は第九の「運命」を口ずさみながらニーチェの言葉を彫ったのだろう。今、富山で棟方志功の展覧会が開催中らしい。
話は変わって先日、講演会の申し込みはがきを3枚出した。もしも抽選漏れになったら、と心配して3枚出したら3枚とも当たった。誰か人に譲っても、と思うが講演会は好き嫌いがあるので誰も誘わずに聞きに行こう。この講演会は本当に楽しみ!中島岳志の講演である。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
