今日も予想最高気温36度で暑い一日となりそうだ。この暑さは10月に入っても続き、2日は32度の予報となっている。それにしてもいつまで暑さは続く!?
『司馬遼太郎が考えたこと』(9)(司馬遼太郎 新潮社、平成十七年)を読んだ。このシリーズは15巻ある。今は10巻目を読んでいるが、最初に12巻目を読んでいるので残るはあと4巻になった。終わりの段落に記した「盛世才」は社会人大学生として学んだ際の卒論で取り上げた人物。この本でこの人の名を見て学生だった当時の忙しくも楽しかった日々を思い出す。「盛世才」の中国語の本、今でも家にある。彼は新疆(東トルキスタン)の軍人だった。以下、気になる箇所を記そう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★中山八郎氏は≪闘鶏図≫(はまだ見る機会がないが)において、くろぐろとして昂然と見構える剛鳥を清朝と見、身をひくめて柔らかく構える白い鳥を明朝として仮託している、という意味のことを書いておられるが、あるいはそうかもしれない。陳鼎の説では、八大山人の号のいわれは「山人のことばである」として、「八大トハ、四方四隅皆我ヲ大ト為シ、而シテ我ヨリ大ナルハナシ」という意味を託しているという。……しかし強いて陳鼎の解釈にしたがえば、我とは漢民族のことであろう。四方四隅とは当然、中国本土の辺彊(へんきょう)の夷荻であらねばならない。要するに、八大山人とは「偉大なる漢民族」ということになる。……しかしながら、私は、じつに小さな、絵としても小さすぎる魚いっぴきを描いた≪魚児図≫が好きである。……ながめていて、魚児はどこへゆくのかという悲しみが、水のようにあふれてくるのである。すでにこの魚児においては、漢民族の運命などという次元には憑(の)っておらず、生命そのものの悲しみというものの中にいるようにも思われる。(「激しさと悲しさ――⑦八大山人の生涯と画集」178p-179p)
★カロシュティー文字という古代文字がある。現存する碑文では、インドのアショーカ王碑文(紀元前三世紀)が最古のその文字の資料だが、ともかくも上代、西北インド、アフガニスタン、中央アジアなどで用いられていたもので、必ずしもインド人の発明とは学問的に確定していない。それが西域(この文章では、新彊、新疆ウイグル自治区、西域といったふうに、呼称をわざと混用したい。言うまでもなく同一の地域のことである)でもある時期、用いられていたことが、有名なスタインによるニヤ遺跡(古代の都市国家楼蘭の圏内)の発掘で明らかになった。一九〇一年のことで、スタインがひろった二枚の木簡にその文字が書かれていたのである。もともとインド通で、梵語(サンスクリット)にも通じていたスタインは狂喜し、さらにさがすと、木簡にして五二四枚というおびただしいカロシュティー文書を掘り出した。(「新疆ウイグル自治区を訪ねて」207p-208p)
★長安の詩人たちの西域好きというのは「唐詩選」によって我々に遺伝されている。日本が国家をあげて中国文化を受容したのは中国における唐の時代で、唐文化がそのまま日本に凍結され、長安の詩人の詩情は、いまの中国人以上に日本人に受けつがれている。日本人の西域好きというのは――ときに病的なほどだが――中国人もそうだろうと思った時期がある。しかしどうもちがうらしく、北京でそのことを、懇意の若い中国人に話しても、日本人はそうですか、という程度の反応しか得られなかった。唐の時代から中国そのものは多くの変遷を遂げているから、新彊といえば中国における辺境の一つという程度の現実的な認識しかないのかとも思い、それはそれで当然だとも思った。(「新疆ウイグル自治区を訪ねて」210p-211p)
★旅行中の私の感想も、流沙を吹く風のように散ってばかりいた。中国古代史における西域三十六国のオアシスの文明を想ったかと思うと、いきなり十九世紀末・二十世紀初頭の左宗棠(さそうとう)、楊増新といったこの辺境の経営者の名がうかび、さらには政治的曲芸家かともいうべき盛世才(せいせいさい)の不毛の半生がなまなましくおもい出だされたりして、いまふりかえると旅のあいだ、ターリム盆地やタクラマカン砂漠の周辺を茫々としてただよっていたとしか思えない。新疆ウイグル自治区には、十三種類の民族がいる。その過半は、古代にイラン系民族との混血によって容貌がモンゴロイドではない。(「整理の付かぬままに」229p-230p)
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