『司馬遼太郎が考えたこと』(8)(司馬遼太郎 新潮社、平成十七年)を読んだ。以下、いつものように気になる箇所を記そう。
★『史記』によると、武帝は、雀去病(かくきょへい)が匈奴と決戦して大いにこれを破った祁連山(きれんざん)を記念し、墓にはそのはるかな異域の山をかたちどった墳丘を築かせ、とある。……雀去病の墓城はひろい。……「解放後、政府は茂陵と雀去病の墓を重視してきました」と責任者がいったように、かつての写真では禿山だった祁連山に多くの木がうえられ、それが新緑のゆたかな樹叢(こむら)をなしていた。何一つ建物のなかった墓域には、事務所、応接室、石人石獣の陳列用の回廊、便所、それに花壇といったように、にぎやかに構造物がひしめいている。(「雀去病の墓」260p-261p)
★日本における大規模な都市設計というのは奈良の平城京からはじまったが、モデルは大唐の長安の都で、長安の規模を縮めて大和盆地につくられた。長安には蕃国からの使者一行を泊める迎賓館があった。迎賓館のことを、中国では鴻臚寺(こうろじ)という。鴻臚とは蕃客をあつかう職のことで、寺とはこの場合、後ろの字義である仏教寺院をあらわさず、古い字義である「役所・官舎」をあらわす。……日本の遣唐使も大使以下の主要構成員はみなここにとめられた。日本では鴻臚寺とはいわず「鴻臚館」といわれた。(「歴所の充満する境域」454p-455p)
★私は東寺というこの密教の宝庫のような寺においては、空海の住房だったこの御影堂の建物がもっとも好きである。……ともかくも私がこの建物が好きなのは中国的なものからまったく独立した独自の平安期の貴族の住居様式がそこにうかがえるような気がするからであり、日本の伝統的な美意識を知る上での手がかりになりそうな気もするからである。……私は、大阪に住んでいる。京都には南から入る。京阪国道を北上して、下鳥羽、上鳥羽を経、やがて東寺の塀にいたるとき、いま千年の都に入ろうとしているという感動を繰りかえし飽くことなく持つ。五月のころは塀ごしの大樟(おおくすのき)の緑が雲のように盛りあがり、新芽が赤くぼやけて花よりも美しく、夏のころは大樟の葉がよくなめされた皮革の光沢をもち、冬でさえこの常緑の樹(き)は京の入り口をあでやかに飾っていてくれる。その大樟のむれは何よりも東寺のあの比類なく豪宕(ごうとう)な土塀によって生かされているのである。東寺でもっとも好きなのは御影堂にならんでこの大土塀である。(「歴史の充満する領域」460p-463p)
今日も暑くなりそうだ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
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